肯定と否定

日本の神話体系は太陽神が女神であるのが特徴で、極めてユニーク。女性太陽神を主神とする神話体系は他地域と反対なので、いろいろな面で世界の他の国と逆の価値観になってることがある。

特に言語つまり人間文化の一番の基本の、その中でも一番基本である「肯定と否定」の発声が逆になってるのが不思議だ。例えば英語で「肯定=YES=イェス」で、発音上は「イェー」でも「ヤー」でも通じる。けれど日本語でこの発音だと「いいえ」とか「嫌ー」という否定になる。また「否定=NO=ノー」だが、日本語では「能」は「よく」とか「あたう」という肯定的な語である。このように言語において一番の基本の「肯定と否定」の発声が、概念/コンセプトの上でそもそも英語と日本語は逆であるのがとても不思議だ。
また同じ印欧語のスペイン語で「肯定=Sí=シー」だが、日本語なら「死」と同じ発音で当然否定的な語だから、やはりスペイン語とも価値観が逆である。

発声学とか言語学の知識はないけど、原初の発声の起源から根本的に概念が逆だったのか?と昔から不思議に思っている。

「法」=水が引く?

諸説あるかもだけど、CHINAの語源はCHINつまり秦で、始皇帝が自身を朕と自称したのもCHINより。その呼称を使っている者がどこかにいるとして、以前5chに「◯◯は苗字がないが、本当は『徐』という苗字だ」とあったが真偽不明。その「徐」に、海の神である七福神の「福」で、徐福。秦の始皇帝の子分だが、蓬莱山伝説は日本各地にあるという。

「始皇帝は『法』による支配を推し進めた」というが別にフェアな法治国家を目指したとかではない。「法」はインドならダルマ(dharma)と訳されるが、果たして社会システムのLAWと同義かどうか、多分違うだろう。始皇帝による「法」とは皇帝が法を作るもので、普通の法治国家とは違うらしい。性善説=孔子、性悪説=韓非子だが、後者の法家思想とどう違うのか。
よく為政者が「法による支配~」とアピールするがこの辺がミソで、フェアにルールに基づいて物事が判断されるのとは異なるようで。だから今回イスラエルの司法制度改革が難航している最中に中東紛争が起きたり。
ちなみに「法」の部首は「サンズイに去る」だから、水が引くみたいな意味?なら太古に大洪水が起こり水が引いた後~のような意味だろうか(想像)。

そして「法」といえば気になるのが、魔術師として有名なアレイスター・クロウリーの「法の書」。読んだことないがこの人物に傾倒するミュージシャンが極めて多いことで有名。「カシミール」を書いたレッド・ツェッペリンも傾倒してたのは知られる。

千代田城は偽預言者の城

今年は2024年、パリオリンピックの年。宇宙軍創設や量子コンピューターやAI人工知能の時代。でも最近5chを見てたら「この国は血統主義だからな」とか「◯◯大学は特定のDNAしか入れない」とか見た。
以前荒らし軍団の誰かが「生まれつき肩より上に腕が上がらないのに、ピッチャーをやれと言うようなもの」という表現をしていた。要するに自分の出自はこうこうだからこれこれの生き方をするのは当然なんだ、他の生き方はできないんだ~という理屈。では市民の「出自」なんて誰が知ってんのか?と言ったら言うまでもなく寺の坊主であり、アイツラが我々市民の出自について管理してる(んだろう)。だから徳川家の子分である「侍」は「ニンベンに寺」と書くから、寺の人つまり坊主のこと。江戸城の正式名称は千代田城である。

源平藤橘という言葉があるけど源平合戦で実際に負けて落ち延びたのは源氏の方。だから今も水商売の女は「源氏名」がつけられてて、売春婦は「女郎」というがこれは源氏武士団が名前に「~郎」とつけて一族郎党を名乗ったのに由来する。源氏の女だから女郎。
俺の小学生時代に「高安」という教師がいて、例によって婿養子でケツバットを連発するキ◯ガイ教師で、歴史の授業で年号を間違えるわ平気で嘘を教えるわ酷いデモシカ先公だったけど、一度こいつが授業中にクラスの女子生徒を指さして「◯◯は源氏の子孫だ」と名指ししたことがある。・・・日本教育界は平気でこんなのを飼ってるんだから他も推して知るべし。
新國民社の本は注意深く読むべきだが、その中に「人身売買の値段表だ」と木板の写真が載ってて、どこかの寺に保管されてたものだと書かれていた。だから「寺の人間=侍=千代田城の子分」はこんな感じに市民を扱ってたわけで。
そしてその末端の手先つまり「branch=枝」がエダと呼ばれ、市民が彼らを忌み嫌って「穢れ多い」と当て字をして蔑んでいた・・・のが真相だろう。つまり穢多身分とは、体制の手先として威張ってたから嫌われてただけ。

要するに、西暦2024年になってもまだ先祖がどうこう出自がどうこうと言って「生まれつき肩より上に腕が上がらないのに~」なんて言ってるのは愚の骨頂だし、そういうのを逆用して国民を分断して「あいつは敵対種族だから」などと結婚差別や就職差別をしているのが、取りも直さずコイツラの親玉自身。それが「油を注がれるもの」だと自らを詐称している偽預言者である。

神武と白山比咩について補足

日猶同祖論を自治体がアピールしている例は普通にあって、この村もその一つ。
http://www.vill.shingo.aomori.jp/sight/sight_main/kankou/sight-christ/

ここに「父親をアヤまたはダダ、母親をアパまたはガガという」とある。「父=男=アヤ」「母=女=ガガ」となっている。
あやとりというのは糸を取って遊ぶ遊びなので「アヤ=糸」、また操り人形は「糸で吊った人形」だから「アヤ吊り=糸吊り」なのでやはり「アヤ=糸」である。おそらく糸の古語をアヤと言ったのだろう。そして糸は発音がイトなので伊都国の伊都と同じ。つまり「父=男=アヤ=糸=伊都」とは神武天皇である。
また蛇の古語をカカ/ガガ/カガといい、G↔K転訛法則により「GAGA=KHAKHA=HAHA」である。だから「母=女=ガガ/カカ/ハハ」であり「女は蛇」である。カガは加賀地方に白山があり白山比咩神社があるから、これは女神なのでその性格を考えても「蛇の女」である。
上記URLに「ヘブライ語で父親をアヤ母親をガガという」とあるから、日本で「神武天皇=アヤ=父」「白山比咩=ガガ=母」に対応し、つまり両者は夫婦ということになる。福岡県北部に細石神社(さざれいしじんじゃ)があり「君が代」の原型があることを考えると神武の妻は磐長姫と思われるが、もう一人白山比咩の存在も挙がるわけだ。
(※崇神神武説についてはこの際不問)

本地垂迹説の白山権現は多面の観音菩薩でまた千手観音なので「何でも見通していていろいろな操作・作為(コントロール)を行う」みたいな思想らしい。それが以前述べたように「白山比咩=菊理媛=コウクリヒメ」だから、山の上から下界を監視して操っているAll Seeing Eyeは神武天皇が統べていることになる。だから高麗神社のある埼玉県日高市は「日高見の国」に由来する。
もちろん仏教用語の「上座部」とは「(山の)上の方に座っている奴ら」の意。

ペストについてちょっと

広瀬隆の「赤い盾」に、元々ユダヤ人の多くはスイスの銀行口座に預金をしていたが、第二次世界大戦中のホロコーストで死んだ彼らの預金は全部銀行のものになった~との記述。
また講談社現代新書の「ユダヤ人」という書籍には、黒死病つまりペストについて興味深い記述。