真間の手児奈

市川真間に真間の手児奈が祀られているが、その説話を読むと「真間の地は海辺にあり、葦の葉がたくさん生えていた」とあり、また「手児奈の通る道には葦が生えていた」とある。

葦というのは、ヒルコが葦の葉の船に乗せて流されたことや、モーセが葦の葉にくるまれて川に流されたという、その葦である。また芦ノ湖には広島の厳島神社と同じ形の鳥居が建っていて、厳島神社は平氏の氏神だから、海民の平氏(と秦氏)の象徴でもある。
葦というのはヒルコとモーセの説話に登場するのでユダヤ人の船のメタファーであり、それゆえ葦も芦も同じなので、同じく海民の平氏(と秦氏)の土地である厳島神社や芦ノ湖には同じ鳥居が建っている。

葦の葉の生え茂る真間の土地で真間の手児奈が大勢の男に求婚されて命を絶ったというのは、葦の葉で象徴される平氏(と秦氏)の男たちに、美しい女が凌辱されて悲観して井戸に身を投げた、という出来事のメタファーである。

名古屋と「八」

高句麗(高麗)の始祖神話に「熊と虎が争って熊が勝ったので、これを始祖とする」とあるので高句麗は熊トーテムだが、クマもコマも子音ならKMで同じ。熊は蜂蜜が好物なのでクマとハチはセットで、北極星はこぐま座で、船乗りは夜空の北極星を目印に航海するから、「8」のフェニキア人はこれに当たる。
八切止夫は「庶民は四つ八つ」といい、四と八はいわゆる賤民と関連する語と主張する。「八」が何に由来するか、フェニキア人なのか、ガネーシャを我那鉢底(がなはち)と呼ぶことに由来するのか。鉢屋衆の山中鹿之介が「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったので、ハチと三日月はセットである。また新國民社の書籍に「八ヶ岳は穢多地だ」とあった。

現在の名古屋市章は漢字の「八」で、八切止夫は「名古屋は八の民の町である」という。名古屋という呼称は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に九州に名護屋城を作っている。
豊臣秀吉は「豊の臣」なので豊の国つまり大分の宇佐八幡宮(宇佐神宮)の配下で、五七桐の紋章は現在の政府も使用しているが、宇佐神宮は古来非常に強い権勢を持っていた。「大分=大いなるワケ」「別府=ワケの府」で、和気清麻呂は道鏡事件で宇佐八幡宮に関連するし、八幡神社の祭神の応神天皇は「誉田別命」で「ワケのみこと」だから、宇佐神宮はもう一つの中枢のような立ち位置だった?

愛知県と静岡県が人権抑圧について問題になるケースが多く、愛知県からの法曹関係者がしばしば要職につくが、愛知と静岡は徳川家にゆかりのある県。いわゆる徳川家康影武者説で「世良田二郎三郎」という名前が上がるが、広島県の世羅町でかつて「女教師一家神隠し事件」があり、世羅高校への同和団体の干渉も問題になった。

また「H」の発音はアイチだが、Hはアルファベットで8番目である。

稲毛について

あくまでインターネットで調べた情報に拠るけど。

千葉市の稲毛浅間神社と検見川神社の宮司は兄弟だったと聞いた。だから両者は同族によるもの。稲毛浅間神社の祭神はコノハナサクヤヒメで、記紀神話ではニニギノミコトの妻だが、隣に建つ黒砂浅間神社でもともと祀られていて、そこで菅原道真霊と合祀されているので、つまり両者は夫婦。黒砂浅間神社は海岸の砂浜だった場所に建っているから、船で天神信仰の人々が来て建立したとわかる。菅原道真・コノハナサクヤヒメ・八衢比古・八衢比賣は「シヴァ・パールヴァティー・ガネーシャ(歓喜天)」のファミリーなので、黒砂とは「クルの砂浜」か「(大)黒の砂浜」と思われる。
そして検見川神社の祭神はスサノヲ・イザナミ・ウカノミタマで、すぐ裏にコリアン地区があるのはもともとが八坂神社でスサノヲを祀るからだろう。かつてこの一帯は「嵯峨」という地名だったといい、この神社の末社にやはり天満宮と金刀比羅神社があるから、もとはコンピラ水軍に乗って天神信仰の人々が来て嵯峨(佐賀)という土地だった。

稲毛浅間神社の本殿の階段の下に八坂神社があるが、結局この稲毛・検見川の一帯も「もともと天神信仰の土地だったが、後から祇園信仰の人々つまりスサノヲ軍が来て征服した」場所だろう。ニニギノミコトは天孫降臨の主役だから、その妻のコノハナサクヤヒメが主祭神で菅原道真も一緒に祀られているということで、やはり以前書いた通り「天神信仰-コンピラ水軍-天孫降臨」のラインであり、茨城県の鹿島地方と同じである。
また黒砂浅間神社のエリアは、平将門の乱で落ち延びた将門軍の隠れ里だったので、それも天神信仰の土地だったのを裏付ける。

こういう「もともと天神信仰の土地だった場所を、後から祇園信仰(≒天津神)が征服した」というケースはたくさんあると思う。征服側の神社の摂社・末社に被征服側の神社が祀られているのはよくある。
 

http://www.komainu.org/chiba/chibasi/inageku/sengen_kurosuna/sengen.html
https://chiba.jinja.love/?p=8931
https://www.inage-sengenjinja.or.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/稲毛浅間神社
https://www.kemigawa-jinja.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/検見川神社

佐賀について

明治維新の薩長土肥で一番目立たない佐賀肥前藩だが、佐賀市伊勢町には日本で唯一の伊勢神宮の分社があり、大覚寺という寺もあるから、ここに大覚寺統つまり南朝があったはず。肥前藩が「葉隠」を著したのを考えても、明治維新の本当の中心というか精神的支柱になったのが佐賀肥前藩なのは疑いない。たぶん維新後にここの南朝から国の指導者を出すはずだったのが、薩長の連中に利用されて排除されてしまった、のが真相だろう。

日本史の真相はわからず、朝廷が地方王朝から豪族を迎え入れたり、地方王朝の系図を天皇系図にねじ込んだりなどあったはず。大覚寺統は後宇多天皇が京都の嵯峨野の大覚寺で院政を行ったのでその名がついたが、もともと嵯峨天皇の離宮がありそこに清和天皇が大覚寺という寺号をつけた。茨城県石岡市の大覚寺は親鸞ゆかりの地なので、結局「嵯峨天皇-清和天皇-大乗仏教-大覚」のラインになる。
そして「嵯峨」も「佐賀」も同じだから、では佐賀県にもともと王朝があったのか、という話になる。南朝は吉野朝廷だが、佐賀県には吉野ヶ里町があり近くにはみやき(三養基)町があり「宮城=宮様の城」だから、地方王朝(の一つ)が佐賀にあったはず。

そして茨城県の鹿島神宮はもともと西から遷移してきたといわれ、佐賀県鹿島市がルーツという説がある。鹿島神宮は天孫降臨の武甕槌命(たけみかづち)を祀り、東国三大社である鹿島神宮・香取神宮・息栖神社のエリアが本当の天孫降臨の地だったとすれば、それが佐賀県から船に乗って渡来した勢力によるものだったなら、佐賀の王朝こそ本当の日本の王家に当たる。
鹿島神宮の御神体である武甕槌(武御雷)の剣は「猛る御イカヅチの剣」で、雷を武器とするから、つまり天神さまである菅原道真の金剛杵で、これは菅原大自在天道真が「大自在天=シヴァ」で、シヴァが「金剛杵=ヴァジュラ=雷撃」を武器に持つのに由来。そして佐賀県には有明海があるが、おそらく「有明」は「アーリア」の漢訳ではと思う。であればアーリア人の主神はシヴァなので、佐賀県の王朝はシヴァ・大自在天・天神信仰を掲げ、それが南朝だったのでは、そして本当の天孫降臨は彼らだったのでは、というのが自分の考えである。
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/大覚寺統
https://kyotofukoh.jp/report416.html
http://hannari-tabi.seesaa.net/article/369448400.html
https://www.ishioka-kankou.com/sightseeing/bukkaku/page000060.html

「日本史年表・地図」を見返したけど

吉川弘文館「日本史年表・地図」を見てると、なーんか(日本の)歴史の授業って肝心な流れを教えないんだなって。
そもそも天皇家が万世一系なんて非科学的であり得ないし、清和源氏と桓武平氏、大覚寺統と持明院統などあったわけだし、少なくとも二つに大分できる勢力が争ってたのは明白。
自分の復習のためにその本を見て、流れをまとめると、

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遣唐使はじまる

大化の改新

白村江の戦いで朝鮮半島から撤退

壬申の乱

藤原京遷都・平城京遷都

東大寺の大仏などの仏教文化

平安京遷都

坂上田村麻呂と桓武平氏の登場

藤原氏の勢力伸張

菅原道真が遣唐使廃止

菅原道真が大宰府に左遷

平将門の乱

藤原氏の摂関政治

・・・・

源平時代
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大まかにこんな流れ。
大化の改新が「韓人、弓を射る」を考えても新羅の介入があったのは明白で、唐と新羅は連合していたから、遣唐使の正体が単なる「進取の文化学問を学ぶため」であったはずはなく、日本国内で政権転覆を引き起こす陽動だったのは明白。それで負けた側が報復として朝鮮半島に攻め入ったが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北。その後再度内乱が起こって、天武天皇が即位し国号を「日本」に定め、藤原京と平城京は日本式の工法で建造されたという。
しかし再度天智系といわれる桓武天皇になり、唐の思想・工法で平安京を建造。その後は藤原氏の貴族政治が始まり、対立する菅原道真が遣唐使を廃止するが大宰府に左遷される。そして平将門と藤原純友は反乱を起こすが鎮圧され、そこから藤原氏の摂関政治になり、平氏の時代になって、源氏が反旗を翻し源平合戦へ・・・。

万世一系なんてファンタジーを前提にしてるから正確な歴史像が掴めないのであって、地方王朝の豪族が中央に移動してきたり、地方王朝の王名を系図にねじ込んだり、いろいろあったはず。だいたい「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫」とかいう「続日本紀」の記述は、当時から史書を捏造改竄していたはず。
朝廷は「日本的な勢力」と「半島・大陸よりの勢力」が対立していたとしか思えないから、それが理由で国を二分する源平合戦・南北朝の動乱・明治維新などが起こった。万世一系を前提にするからどっちがどっち側なのかわかりにくいが、その辺は朝廷の真相なんてのがわからない以上判断できない。

ちなみに「万葉集」では梅を詠んだ歌は桜を詠んだものの三倍あるという。しかし平安時代になり割合が逆転し、「古今集」では桜を詠んだ歌が梅を詠んだものの倍になる。梅の花は天神信仰のシンボルだから、もともとの日本は天神系・国津神系の思想が主流だったことがわかる。平安京は唐の影響が大きい建築で「唐=カラ=CR」だから、桓武天皇は天神信仰・国津神を排斥する立場だったのは明白。
付記すると、青森県東北町にある「日本中央の碑」の伝説では、「日の本」とは蝦夷地の呼称だったという。真偽はともかく蝦夷つまり古層民族が太陽信仰を持っていたのは事実だろう。

シャクティについて私見

インド(ネパール)のお釈迦様はアーリア人戦士階級であり、仏教を創始したが、仏教は「宗教」ではなく「社会変革運動」だった。インドを色の白い人間たちが支配するようになりカースト差別制度が確立し、そこでは最上位のバラモンが最も偉く、土着の人々は虐げられた。当然女性に対する迫害や性的暴行なども行われたのは、現在でもインドがレイプ大国と呼ばれ、バラモン教が選民思想・差別主義なのを考えれば言うまでもない。
そういう古代インドで、戦士階級がバラモン支配を打倒としようとしたのが本来の仏教で、カースト序列をクシャトリヤをバラモンの上位に置こうとする、要するに社会変革運動だった。

インドに限ったことではないが、性的概念や女性への認識について、論が一貫せずにゴッチャになっているケースをよく見る。例えばインドなら、シャクティというのがあり「性力」と訳されるが、これはフロイトのリビドーの概念同様、ゴッチャにして誤解している場合が多い。リビドーは性欲こそ全て、すべての根源は性欲つまりセックスへの欲望なのだと勘違いしているケースがあるが、単純な性欲ではなく「人が異性を愛すること」が根本で、そこから愛の到達点としてセックスを欲するというのが本来の意味。だからシャクティも二つの意味があって、一つは「異性に対する愛」、もう一つは「女との性行為」で、前者を一般民衆が信仰し後者をバラモンが追求し、両者が混同されている。
シャクティ信仰はベンガルで盛んというが、ベンガルはカルカッタがありこれはカーリー・ガートつまりカーリー寺院から来た地名で、カーリー崇拝が盛んな地域である。隣接するオリッサはベンガルと言語的に近く、漢字ならオリッサは「意利佐」で、これは新撰姓氏録に「八坂造の狛国人」として見られる人物と同名。つまりオリッサ・ベンガル・バングラディシュは日本民族の源流の一つなわけで、そのエリアにはマガダ国があり、ナンダ朝がマウリヤ国に乗っ取られるわけだから、明白な支配被支配の社会構造があった。だから当然下層民衆の女性が虐げられるケースは多かったろうから、それがカーリー女神つまり「怒れる土着女神」信仰を生んだ。一般民衆はその女神を崇拝しそれがシャクティ信仰になり、だけど支配層は女性を虐げる立場だから性行為を目的とする思想を持ち、それまでシャクティと呼ばれて、両者が混同されてゴッチャになった。

お釈迦様が女性をどう認識したかは、彼は別にフェミニストではなくあくまで「アーリア人戦士階級」なので、男性的な考え方を持っていたから、しばしば女性蔑視をしていたと誤解されるケースがあるけれど、社会変革運動として女性の権利や生存を守ろうという考えだった。彼の死後、仏教がデタラメや誤謬が大量に付記されて本来とかけ離れたものにされてしまい、終いには沙門宗教だった仏教がバラモン教と同じにされ、教義に「生まれ変わるなら男に生まれ変わりたい」とまで書かれるようになり、存在意義を失いインドから消えてしまった。
仏教は煩悩の除去が解脱への道と説いたが、この「煩悩」の概念が現在の日本の煩悩と同じなら、結局バラモンの性行為追求・女性迫害の考えを批判したに等しく、くさい言葉で言うなら「女を見て性欲ばかり湧いてるんじゃ解脱できないよ」と同じ。

同様に誤解されている似た概念としてマチズモ(マッチョイズム)があるが、これも「男性上位主義」「男が女を力で支配すること」と勘違いしているケースが多い。それについてはスペンサーシリーズの「約束の地」という作品を読めば理解し易い。