⑦日猶同祖論私考(その2)

謎の民族

ユダヤ民族が12の支族から成っていたことは誰でも知っており、北王国が10支族・南王国が2支族により成っていたこともまた知られている。結果的に北の10支族が消えてしまい「Lost Ten Tribes」となるわけだが、そもそもユダヤ人がなぜこれほど大昔から常に人々の話題に上るのかといえば、結局「いろいろな場所にその痕跡らしきものが現れるが何一つ立証されていない」からである。特に南北アメリカ大陸は新大陸と呼ばれ、コロンブス以前は「存在していなかった」ので、それ以外の土地=ユーラシア大陸とアフリカ大陸において東西南北いろいろな場所に彼らの痕跡が現れるため、彼らつまりユダヤ民族は「謎の民族」であった。
例えば我々が歴史の授業で「四大文明」と習う四つの文明のうち、インダス文明は単なる「謎の古代遺跡」で、誰が作ったかもわかっていない。またエジプト文明は最古の王国が初めから完全な文明構造を成して突然現れると言われ、最古層はセム族の痕跡が見られ、ある者は「それは黒人系のユダヤ人である」と言う。つまり人類文明の最初期からユダヤ民族は謎の存在であり、その後も例えばエジプトでミイラ制作を担っていたのはユダヤ人であったり古代ギリシャでもユダヤ人が金貸しをしていた記録があったり、もちろん真偽の程は定かではないが、そういういろいろな有象無象の情報がある。
他にもソロモン王がいわゆる「鍵十字(鉤十字)」をシンボルとし、ナチ党のシンボルと同じものを自身のシンボルにしていたことは知られている。ナチ党が魔術やオカルト団体と関係が深かったことは有名だし、初期のメンバーに仏教徒が多かったとかベルリン陥落の際にチベット兵の死体が大量に見つかったという話もある。ナチ党と魔術・オカルティズムについては映画「インディ・ジョーンズ」のモチーフにもなったし、聖杯伝説やファティマの予言など、私のような日本で生まれ育った日本人にはまだ理解するのが難しい考え方がキリスト教社会には存在するようだ。

数年前「ダヴィンチ・コード」が大変話題になったが、その中に「占星学上、西暦2000年までは魚座の時代、その後2000年間は水瓶座の時代になる」とあった。昔からキリスト教では魚をシンボルにし、それはギリシャ語で「イエス_キリスト_神の_子_救世主」の頭文字を並べたものが「魚(イクトゥス)」になるからだと言われる。こういうのが言葉や言語の面白いところで、必ずしも言語学上証明されたような変遷を辿って現在の語になったとは言えないことがある、という例である。言語というのは人工的に変更・調整されたり人造されることもあり、日本語の標準語も同様なのは知られている。特に英語は現在の世界標準語で、非常に明確な規則をもって形成されている(と私は思う)ので、単純に「時間とともに進化」してきたとはとても言い難いと思う。つまりもし仮にこの世界に悪魔崇拝者がいるとして、彼らの崇める悪魔を人類皆に崇拝させたいなら、その言葉の中に虚偽を混ぜ、人々が「神よ!」と唱えていても実際には悪魔の名を呼んでいる、という状況を作り出そうとしても不思議ではない。日本なら太陽の出ている時間を「昼=ヒル」と呼ぶことはその一つだろう。もちろん全てがそうではないだろうが、そういう虚偽は様々な場所にあるだろうし、また各種言語が相関関係を持ちながら虚偽を形成することもあると思う。なぜなら彼らユダヤ民族は世界の各地に散らばったので、様々な場所でそのような行使を陰に陽に行ってきただろうからだ。

日本におけるユダヤ的痕跡①

日本においてもずっと以前から日猶同祖論はあり、それは伊勢神宮の灯篭にダビデの星が書かれているとか青森にキリストの墓があるとか、剣山に聖柩(アーク)が埋まっているか戦前の軍部が調査したとか、そういう類の諸々の「噂」は星の数ほどある。こういうのが期待的観測に基づくものであったのかどうか、私はまだ生まれていなかったため当事者ではないので正確にはわからない。しかしいくら「似ているもの」「どう考えても無関係には思えないもの」がたくさんあっても、それを「証明」できなければただの類似に過ぎず、そして証明することは不可能である。

例えば「蘇民将来」という説話があり、これは近畿を中心に各地にある説話だそうだが、ユダヤ民族の「過越しの祭」と同様のモチーフである。『客人神として放浪するスサノヲが蘇民と巨担の兄弟の元を訪れた際、弟の蘇民が自分の家に泊めてくれたので、スサノヲは彼の未来の繁栄を約束し「戸口に”蘇民将来”と書かれた札を掛けておけば病気・災厄はその家を避けていくだろう」と言い、去っていった』という内容である。これは有名な説話だが、元は旧約聖書の出エジプトの際のテーマがモチーフなのは言うまでもない。この「蘇民」だが、「蘇る民」なのかどうかは不明だが、古代の豪族に「蘇我氏」がおり、彼らは大化の改新で失脚したのを考えても新羅系である。この説話でスサノヲが神であり「蘇」という民のことを繁栄させるとなっているが、スサノヲとユダヤ的モチーフの関係がやはり重要になる。日本書紀では一書に曰くとして、スサノヲは「新羅へ渡った」とあり、また「根の国へ帰った」ともある。根の国とはルーツの国であるから、つまりスサノヲは新羅(朝鮮)由来の神であることは疑いない。
「蘇我」は「蘇る我(ら)」と書くが、千葉県千葉市に蘇我という場所があり製鉄関連の土地である。ここと市内の別地区に「白旗神社」があり、白旗神社は「源氏の白旗」に由来するといわれるようだが、両者近隣にはそれぞれ朝鮮系の施設がある。源氏のルーツ・平氏のルーツは定かでなく、古代新羅の「花郎(ファラン)」が「源花」と呼ばれるためこれが源氏でないかという説や、白旗は新羅の「シラ」でないかとか、日本の白山信仰が朝鮮の太白山に由来するとか様々な説がある(ただ日本の神社名や地名には「白」「赤」「黒」が付くものはとても多い)。また太白信仰は金星への信仰で、「太白星=大いなる白き星」と書きこれが金星である。「ダヴィンチ・コード」には『五芒星は金星の描く軌道から成立した』とあり、金星はルシファー(=サタン?)と同一視される。日本の平家の隠れ里と呼ばれる場所には地名に「五」という字が付くことも多く、またサンスクリットで「GO」は牛を意味する。源氏と白拍子との関係や、現代の水商売に携わる女性が「源氏名」を名乗ることも指摘される。また新羅の古代名の一つとして「波斯(パリ)」があり、これはペルシャの中国名(中国での呼び名)である。
蘇民将来の説話だけ見るなら単に過越し祭に対応するエピソードに過ぎないが、こうしていろいろな関連を辿っていくとやはり汎アジア・汎世界的な繋がりがあるように考えられる。

また「因幡の白兎」という説話も有名で、これは「ウサギがワニの背中を渡って~」という話なのは誰でも知っている。この話の同一モチーフとしてアジア諸国に似た話があるというのも知られている。また日本近海にワニはいないので、「ワニ=ワニザメ」つまり魚だった、と一般的に言われている。
ではウサギとワニは日本では何を意味したか、ということだが、ウサギというのは白兎で、ワニは鰐である。まず日本に漢字を伝えたのは和邇(わに)博士で百済(からの渡来)人である。これは「王仁」とも書き、音で言えば「応仁」また「鬼」ともほぼ同じだ。また以前述べた通り古代の宇佐は新羅系の文化が栄えていた場所で、新羅=シ(ン)ラである。「白」とも同じでゆえに白山信仰とも関係があり、源氏は白旗をシンボルにし八幡信仰を持ち、宇佐八幡宮はその大元である。また月に兎がいるというのは東アジアでは昔から言われ、つまり月信仰と結びつく。よって「白い兎=新羅+宇佐」で、「鰐=和邇(博士)=百済」とすれば、結局この説話の意味は『出雲において新羅・宇佐の勢力が百済の勢力を足蹴にした』ということか?
参考までに書くと、茨城県の鹿島には「わに河」という河川があり、そこは元々畿内の茨木地方にいた百済系の部族が遷移してきた場所という説がある。藤原氏は鹿島を発祥とするらしく、大化の改新で新羅系の蘇我氏を追放したのは中臣氏で、これは後に藤原氏になると言われる。また茨城には「百里」という土地があり、「百」は百済系の地名や人名に付くケースがある(と思われる)。つまり茨城県の鹿島地方は百済系の部族の勢力地であり、そこに「わに河」という河川がある。日本で金毘羅神社というのはインドの鰐の神であるクンピーラを祀ったものだが、両者の関係はわからない。
「因幡の白兎」で兎を助けるのはオオクニヌシで、これは大黒様だが、つまりスサノヲのグループである。よってやはり当時出雲を治めたのは新羅系であり、朝鮮由来の各部族の区分も釈然としないが、ある種の隠喩的なエピソードだろう。もちろん日本に来るには朝鮮半島を経由するのが一番の近道なのでそこを通るのは当然だが、だからといって「朝鮮=ルーツ・起源」ではない。

日本におけるユダヤ的痕跡②

冒頭に「Lost Ten Tribes」の名を挙げたが、漢字の「十」は「ジュウ」と読み、発音はJEWである。十の形はCROSSで、「Ten=十」なのは言うまでもない。こういうのは当然何らかの理由があってのことだ。漢字が象形文字であっても古代の日本には万葉仮名があったので、例えば「聖徳太子」は漢字の意味からできた人名、「和邇」は発音に漢字をあてた人名であるから、なぜその字句がその読みと意味を持っているのかは様々な理由による。よってそういう中にはいろいろな作為や意図が含まれており、前述した英語などと同様である。
個人的には、日本語で「戸」というのが何を意味するのか興味深い。東北地方に一戸~八戸までの地名があり、信州には戸隠という土地があって現在忍者村がある。また青森のいわゆるキリストの墓伝説は戸来村にある。「戸」は「と」「へ」と読むが、何か象徴的な意味があるかもしれない。
また有名な「かごめかごめ」の歌であるが、「かごめ=籠目=カゴメ紋」であり、つまりダビデの星(六芒星)のことだ、とよく言われる。歌詞中に「鶴と亀が~」とあるが、「鶴は千年、亀は万年」という言葉があり、漢字の意味上「千年=千代(generation)、万年=万歳(year)」である。つまりこの二つの語は、この二つの動物への信仰と関係がある。亀に関して言えば、出雲大社の神紋は「亀甲紋」で亀の甲羅であるが、要するに六角形のことだ。よって六芒星も然りだが「6」という語(数字)が問題になる。周知の通り聖書において『獣の数字』は『666』である。「6」という数字はそのフォルムが日本の「巴紋」と同一で、巴紋は「蛇がとぐろを巻いている姿からできた」象形紋らしい。いわゆる三種の神器の勾玉はこれと同一の形をしている(※残りの「鏡と剣」は、カガ=蛇の古語ゆえ「カガミ=蛇見」という説があり、剣はスサノヲがヤマタノオロチを退治する際に使用した剣である)。よって三種の神器はどれも蛇崇拝と関係がある可能性は高いだろう。
なお、旧約聖書の創世記第49章にユダヤ12支族の各紹介文が書かれているが、その6番目はダン族についての文である。全ての支族を1つと数えればダン族は13支族中の7番目だが、現在は12支族中の6番目である。3という数字も複雑で、現在のキリスト教は三位一体説を採り3は良い数字とみなされるが、三位一体説自体が疑問のある考え方ゆえ単純に良い数字とは言えない。ユダヤ12支族に固有のナンバーがあったとしてダン族がNo.6ならば、それが3つ並んだものが666である。英語で太陽を「SUN=サン=3」というが、これは「各種言語が相関関係を持つ」ことの一例だと思う。

つまり結局、ユダヤ民族が世界各地にその痕跡を残している(とみなされている)以上、ユーラシア大陸東端の日本にもその痕跡はあり、こういうものが大変見え易い形― 装飾品やシンボルや神話など ―で目に付くことが多いゆえ、ずっと以前から日猶同祖論は(期待的観測を伴いながら)議論されてきた。ユダヤ民族が事実上とても影響が大きくまた謎に満ちた存在であるゆえ、それとの繋がりを求めたいというのは特に不思議ではない。

種々の要素の中にある痕跡

余談的に付け加えると、未だに語源が明らかでない古い言葉はたくさんあり、例えばイザナギ・イザナミというのもそうだ。両者に「イザ」が付き「ナギ」「ナミ」がそれに付随している。風の無い時間を「凪(なぎ)」と言い、風が無ければ波は立たない。よって「ナギ」「ナミ」で「波が無い状態」「波がある状態」の対比になっており、それに「イザ=イサ」が付く。つまり古事記神話の通り最初に海しかなかったのなら、この両者の名前は「海面が揺らめく様」に由来するかもしれない。
もう一つ書くと、日本語の悪口として「馬鹿」というのがある。仏教ではまず仏陀(お釈迦様)がおり、その下に牛頭天王・馬頭天王がいるが、仏陀が鹿ならば「鹿 ― 牛+馬」という構図になる。もし牛から見れば残りは馬と鹿なので、これを総して「馬鹿」と呼んだ可能性もある。つまりインドなどで牛は何を意味したか、牛(≒バール)崇拝者たちは日本でどの立場であり誰のことを蔑んだか、ということだ。
もちろんこれらも全く確証も証明手段も無く、今後も証明されることはない。ただもし日本にユダヤ民族やそれに影響された者たちが訪れていたのならその影響は残っているはずだし、また実際に残っている以上、荒唐無稽だと即断することは逆に荒唐無稽だと言っておきたい。

[2009/04/15]

⑥日猶同祖論私考(その1)

解決不可能な謎

「日猶同祖論」というのはずっと昔からある考え方で言うまでもないほど有名だが、「古代にユダヤ人が日本に来ていて彼らが日本民族のルーツとなった」という説のことである。これに関してはこれまで星の数ほどの人々が論じてきて未だに何一つ進展は見られず、また今後も見られないであろう「解決不可能な謎の一つ」である。
ユダヤ人が中国まで来ていたことは証明されているが、そもそも古代の民族や人々の移動範囲・規模がどの程度だったのかが未だに釈然としていない。航海技術の程度にしても何故か定説は無いようである。それらに関しては現在でも新しい見解が生まれているようだが、未だ諸説あり定説というのは無いようだ。ユダヤ人が日本民族のルーツかどうかはさておき、両者の間に強い関係があった(ある)ことは事実である。もちろん日本以外にも「韓猶同祖論」「英猶同祖論」等もあるそうで、それはユダヤとの繋がりがあればある種の権威が伴うゆえ希望的に流布されることもあるだろうし、世界各地にそういう説や痕跡は見られるので特に日本だけに限ったことではない。
今回はとりあえず、私の現在の時点での日猶同祖論に関する見解をいくつか述べてみたい。

秦氏について

日猶同祖論を語る際に必ず挙がるのが秦氏の名前である。何故この名前ばかりが挙がるのか不思議なほどだが、まずこれについて述べたい。
秦氏の中興の祖として秦河勝がいる。「河勝」というのは「水から拾い上げる」ということからついた名前だと言われるが、旧約聖書のモーセも「水から拾い上げる」というのが語源である。モーセは誕生当初葦の船に入れられて川に流されるが、それを拾い上げてもらったことからこの名がついた。つまり両者は同じ名前である。「古事記」には同じように葦の船に入れられて海に流されそのままどこかへ消え去ってしまう、イザナギ・イザナミの第一子「蛭子(ヒルコ)」が登場する。この三者は同じモチーフを持っているが、ではヒルコとは何か。ヒルコは読んで字の如く「蛭のように手足が無かった」奇形児で、つまり手足が無い=蛇と同じである。これが葦の船に入れられて海に捨てられる。高天原ファミリーの第一子ゆえ最も敬われるべき存在であるが同時に最も忌避される存在でもある。これが蛇と同じであればヒルコ=悪ということになる。
秦氏が朝鮮からの渡来人なのは明白である。では「秦」という字であるが、これは始皇帝の秦と同じで、更にペルシャの中国名(中国での呼び名)でもある。アケメネス朝ペルシャ帝国と中国の秦帝国がよく似た支配体制を採っていたのは有名だが、日本の秦氏の末裔と称する某政治家は家系図を遡ると秦の始皇帝の名が書いてあるそうだ。実際秦氏は応神天皇の時代に朝鮮半島から弓月君に率いられ渡来したと言われるが、元々秦帝国の残党だったとも言われる。

古代イスラエル王国が南北に分裂し、北王国の10支族・南王国の2支族に分かれるが、北はアッシリア帝国に滅ぼされて住人は皆連れ去られその後行方不明になり、いわゆる「Lost Ten Tribes(失われた10支族)」となる。南はその後新バビロニア(カルデア)王国に滅ぼされていわゆる「バビロン捕囚」の状態になるが、これを解放したのがアケメネス朝ペルシャ帝国で、よってユダヤ人はペルシャに大変な恩義を感じている。この後ユダヤ人の一部はペルシャに留まりやがて国へ還るが、それゆえユダヤ教にはペルシャの影響が多分に入っていることは有名である。では消えた10支族はどこへ行ったのかだが、当然ペルシャに滞在していた者たちもいたはずである。
ここで面白い話があり、ペルシャの都のスサで総督の座に就いていたのはユダヤ人で、スサはヤサカ川という川の上流にあり、そこでGIONという神を奉っていた、という説がある。これの詳細について私は知らないが、国東半島に八坂川という川があり、国東は以前述べたように秦氏の初期の拠点があったと思われる土地である。「祇園」という語は元々サンスクリットだが、複雑な経路を辿って成立した語かもしれない。
もし消えた10支族のうちの何某かがペルシャに滞在し、その影響下に置かれたまま東へ向かい、その名前を「ペルシャ=秦」と名乗ったとしたら、彼らが秦氏と呼ばれるようになった部族かもしれない。秦氏の「弓月君」という王の名は「弓月=弓型の月=三日月」ゆえ、CRESCENTすなわち月信仰の側の存在であることを知らしめるためだったろうか。

ヒルコに話を戻すと、これは不具の子であったため誕生直後に海に捨てられた。だがどこにも死んだとは書いていない。よってどこかで生きているはずであるが、瀬戸内海に最初の島が作られた以上ヒルコもその周辺に流れ着いたはずである。実際西宮にはヒルコを祀った神社があるしその周辺には大避神社もある。「大避」というのはダビデの漢訳だとの説があり、祭神の「大避大神」は秦河勝である。また酒造も盛んだが酒の神バッカスはデュオニソスと対応し、スサノヲとも対応すると言われる。
以前述べたように秦王国が現在の中国地方の広島の辺りにあったとすれば、ヒルコはそこまで流れ着いたかもしれない。上述の三者が共通のモチーフを持っている以上繋がりがあると考えるのが自然である。要するにヒルコのモチーフが意味するものは、もし秦氏がユダヤの一部族であったならば、「民族の象徴たるモーセのモチーフと蛇のモチーフを重ね合わせ、同時に自らの存在が忌避されるものである」ことを隠喩していると言えよう。スサノヲは高天原ファミリーの厄介者だがヒルコもまた同様ファミリー内で忌むべき記憶・存在である。この両者が組み合わさったものが秦氏と秦王国だと言えるだろう。

支配カーストと奴隷カースト

日本にはいわゆる差別問題が昔からあり、これに関する正確な歴史的情報を一般的に入手することは不可能である。何故なら「その立場だった」と主張する者たちがその研究をすることを妨げているからだ。正確には彼らが自らのルーツを解明されることを妨げていて、それゆえ日本という国は歴史に関して明確に全てを把握することは出来ない。結果的に未だに天皇家のルーツも邪馬台国の場所も日本語の言語系統もそれ以前のことも一切解明されていない。
日本の最上位カースト=支配カーストは天皇家だが、もし秦氏がユダヤ人であるとすれば、この両者はどういう関係か。日本の最下層カーストがいわゆる賤民だったとすればこれを纏めていたのは弾左衛門であるが、これは穢多頭である。弾左衛門の屋敷は浅草にあったがそこには待乳山聖天つまりガネーシャが奉ってある。「弾=ダン」という語であるが、周知の通りユダヤ12支族の中にダンという部族があり、北王国の一部であった。彼らはそのシンボルとして蛇のマークを持っており、蛇が邪悪の象徴なのは言うまでもない。旧約聖書に「ダンは獅子の子」とあるが、獅子はユダ族のシンボルである。ではユダ族とダン族が親子(のような)関係にあったとすれば、これが日本で現れるケースはどのような場合であるか。
日本で獅子が見られるのはただ一つ、神社の狛犬である。狛犬=高麗犬であり、そのルーツについても定説は無いが、高麗の名がついている。高麗というのは現在のKOREAの語源であるから、つまり朝鮮である。これが獅子の姿をしている。では獅子=朝鮮であり親ならば、子の蛇は誰でどこにいるのか。
秦氏がユダヤ人ならばその名にペルシャという語を名乗っている以上、ペルシャ的なユダヤ人のはずである。よって邪悪の象徴である蛇をシンボルにしても不思議は無い。では秦氏=ダン族だとすると、これが獅子=朝鮮の子ということになる。現在の部落解放同盟つまりかつての賤民たちは「同胞融和=同和」という語を使用しているが、彼らは(北)朝鮮と親密である。以前も述べたがこの団体のシンボルは「荊冠旗」で、イエスの象徴である。何故彼らがユダヤ人の中に現れ殺された者の象徴を自らのシンボルとするのか。また秦氏がスサノヲを主神としていたのなら、ダン族の英雄サムソンと同様の「髪を剃られ目を潰される」モチーフが存在するのも自然だろう。もし穢多と呼ばれた身分の者たちがユダヤ人であり秦氏と大部分で重なるのであれば、彼らがダン族でありそれゆえ弾左衛門という者がそれを纏めていたのかもしれない。

秦氏という部族は謎の多い部族であり、どこでどう推移して行ったのか釈然としない。もちろん古代には強大な豪族であり天皇家とも血縁があったし聖徳太子の後見人も彼らであったと言われる。だが結局明確な推移がわからず、これは他の豪族も同様であるが、いつの間にかどこでどうなったのかわからないまま歴史から消える(ように見える)。
古代から賤民はいたはずだし、それは例えば東大寺門の仁王像が鬼を踏みつけていて鬼の指が四本しかないというのも一例である。鬼というのは昔から日本では悪の存在としていろいろな場面で登場するが、つまり「頭に角が生えている」のが特徴であり且つ「体が赤い」のも特徴である。以前「クシャトリヤは赤い」「現在赤色人種というのはいない」と述べたが、仏教の開祖ゴータマはクシャトリヤの出身、仏教は牛を崇拝するインドで生まれた宗教である。また「赤」という色は中国の秦帝国のカラーと言われCRESCENTと同様CRIMSONも語源はCRである。以前述べた通り国譲りの際ニニギノミコトを道案内したサルタヒコは天狗と同様赤い顔をしており、サルタヒコが天孫族以前から日本列島にいて彼らを迎え入れた。つまり秦氏は「赤」という色と繋がりがあり、またいつの間にか賤民に落とされ「蛇≒牛」であるゆえ頭に角が生えた赤い鬼として描かれ、賤民ゆえ仁王像に踏まれる彼らの像には指が四本しかない。豪族が賤民に落とされるケースというのも、朝鮮からの渡来人であれば百済・新羅・高句麗の強弱関係で立場が逆転することもあったわけだし、他にもそういう豪族はいるから明確にはわからない。しかし現在でも古事記に「ヒルコは不具の子だったので海に捨てた」と書かれまたヒルコがモーセのモチーフを借用している以上、彼らはユダヤ人同様公には忌避される存在のはずである。

悪の枢軸

では朝鮮=KOREA=高(句)麗がユダ族で日本の奴隷カーストがダン族であれば、「悪の枢軸」と現在地球上で呼ばれるイランと北朝鮮は、イラン=秦=ダン族というラインで繋がる。悪の枢軸というのはキリスト教(原理主義?)から見ての悪であるが、実際には絶対的悪だと言っていいだろう。つまりアーリア人が南下しインドに来て、その後イランとインドに分かれる。バラモン教が神人一体思想であり且つ「自分たちだけが人間だ」という選民思想であれば、それはナチズムと同様であるしまたユダヤ人の一部おそらくパリサイ派の考え方と同じはずである。言うまでもなくパリサイという語は「ファールス」を語源としペルシャと同義であるし、イエスを殺したのも彼らである。
イランの影響下に生まれた宗教はキリスト教にとって異端であることが多いが、要するにキリスト教にとっての悪の根源はグノーシスである(と私は思う)から、例えばプロメテウスが内臓を永遠に啄ばまれるのはゾロアスター教の鳥葬の暗喩だし、そもそも「人が死ねば土=アダムに還す」のと「人が死ねば火で燃やして灰にする」のは全く異なり後者は拝火的である。グノーシスのシンボルは蛇であるが、蛇をシンボルとするダン族が秦=ペルシャという名を名乗っている以上「悪の枢軸」というのはイランと北朝鮮に加え、彼らの配下である日本の奴隷カーストたちもだろう。日本の支配カーストがどの部族なのかは私にはわからないが、ヒルコもスサノヲも高天原ファミリーの一員である以上彼らと血縁関係にあることは確かである。
水平社の設立の際の文言に次の一文がある。「人の世に熱あれ、人間に光あれ。」 彼らは「人」と「人間」を使い分けているが、人の世を火で焼き払い、自分たち人間には光を与えてほしいと堕天使に願ったのだろうか。ゆえに彼らは旧約聖書の中に、つまり何千年も前にこう書かれている ― 「ダンは道のかたわらの蛇、小道のほとりの蝮。あなたの救いを待ち望む。」(創世記:49章16-18節)

日本におけるサタン

ヒルコは蛭子と書くがこれは「えびす」とも読む。恵比寿は七福神の一人だが海の彼方から来る客人神で、「夷」もえびすと読むがこれは古代中国で異(邦)人を意味した。つまり海のABNORMALな者たちである。スサノヲは海原の支配者であり秦氏(を含む渡来人)の主神と考えられる。源氏平氏について少し述べると、源氏=白旗/平氏=赤旗であり平氏は海民であると思われ、平氏は広島の厳島神社を氏神としたがここはスサノヲ信仰の拠点である。源氏平氏ともに出自は明確でなく朝鮮との関係も深いと思われるが、平氏は秦と同じく赤を自カラーとし、また赤はコミュニズムの象徴でもある。彼らは一時栄華を誇り「平家にあらずんば人にあらず」と選民思想を喧伝した。山民と海民の関係も明確ではなく日本において様々な部族がテリトリー的に各職能を分担して持っていたようだがその明確な事実の解明も殆どなされていない。仮に平氏が海民と関係があり以前述べたように「赤≒AQUA」であれば、彼らは秦氏やダン族と同一カテゴリーの存在だと思われる。渡来人にしても全てが同一のグループではなく祭神も異なるだろうしどこかで分化するケースもあったろうから、一概に一括りにするのは困難である。
鬼には角が生えていて悪の存在であるが正確には「障碍」としての存在だと言える。そう表現された者たち=秦氏がバール=牛神を崇拝するダン族と同一であるため鬼は角が生えた生物として描かれ、また百済仏教(大乗)の日本では新羅仏教(小乗的?)の彼らはその障碍であった。「牛≒龍」ならば要するに彼らは単純に邪悪な存在であり、ゆえに公には古来より忌避される存在だった。キリスト教におけるサタンが現在の「悪の枢軸」であれば、つまりサタンも鬼も同じ者たちということになり、イコール「人類の普遍的な敵」である。
ニューヨークの911テロ事件後に日本でも政治的な変化があった。現在自民党で最盛なのは清和会だがこれは清和源氏に由来する名称だろう。同時に賤民と繋がりがある(ことを一般的に言われる)者は主流から外された。アメリカと日本の思惑が合致した結果である。結局地球は二極に分かれておりそれは資本主義と共産主義ではなくて、善と悪もっと言えば太陽信仰と月信仰であることが自明になったのが911テロ事件以降である。
日本語で太陽の出ている時間を「昼=ヒル」と言うが、つまりイエスを信じる者たちがCRのついた語を唱えるのと同様、多くの人々は欺かれている。結論を言えば「月信仰側の蛇として存在している日本の奴隷カースト=サタン(の一部)」であり、彼らの行動言動がそれそのものであるがゆえ古来より彼らはそう呼ばれたに過ぎず、よってキリスト教(原理主義?)にとってまた太陽信仰にとっての絶対的悪であり、ゆえに彼らはインドでも日本でも太陽信仰の人々をアウトカーストとして社会の外に置き「自分たちだけが人間だ」と選民思想を依代にする。ずっと昔から平氏もナチ党もユダヤ人(の一部)も全く変わらず今後も変わらない「救われざる哀れな魂」であるがゆえに、上記の旧約聖書の一文が存在するのだ。

[2009/02/05]

⑤クリシュナと堕天使

インドにおける英雄クリシュナ

クリシュナという神はインドにおいて最も人気のある神だといわれ、現代でもその名や異名を自らの名前にするインド人は多数いるといわれる。その生涯を物語化したり映画化したりすることは今でも頻繁にあるそうで、インドにおいては「英雄(ヒーロー)」というべき存在であるようだ。
KRISHNAは「黒=BLACK」という意味で、よってアーリア人が来る以前から居住していた色の黒い人々の神であった。一般的にヤーダヴァ族という部族の首長であった実在の人物が神格化したものだとされる。別名が「ダーサ=奴隷」であることからも、土着の人々の神であったという見解で一致していて、当然ともいえるが「大蛇を退治する神話」も持っている。古代にバクティという神への献身的な愛を説いた指導者だった人物がやがて神と同一視されるようになった、ともいわれる。
有名な「マハーバーラタ」でバガヴァット・ギーターをアルジュナ王子に説くクリシュナの姿はよく知られており、キリスト教の世界でも有名なようである。インド神話におけるクリシュナは「美男子で女性の憧れで強くて聡明で愛に溢れた」神であり、文字通り英雄(ヒーロー)的な神だといえる。

クリシュナとその影響

クリシュナは太陽神であり、ヴィシュヌの化身の一人である。ヴィシュヌはその化身としてラーマと特にクリシュナを取り込んだことによりその存在が現在のように巨大になったといわれ、「ハリハラ」という言葉がありハリ=ヴィシュヌ、ハラ=シヴァであるが、ハリ=クリシュナでもある。つまりヴィシュヌは土着系の二大神を取り込んで巨大な存在になり、尚且つ太陽神であるから、土着系の人々=太陽信仰であるといえる。
ちなみに辻直四郎は「ヴェーダに書かれているハリ・ユーピヤーがインダス遺跡のハラッパーではないか」と述べたそうだが、ハリとハラは全く異なるのになぜこのようなことを言うのか不思議である。
相当昔から言われていることらしいが、「KRISHNA」という語は「CHRIST」の語源ではないか、という説がある。理由としてはクリシュナの生涯がダビデの生涯と(ストーリー上)似ていること、前者は牛飼い後者は羊飼い、それとバガヴァットを説くことなどで、もちろん「クリシュナ」と「クライスト」の発音が似ていることなどもある。イエスの教えとクリシュナのバクティの詳細な比較については私は知らない。
クリシュナとダビデの生涯が似ていることについては、イスラエルからインドの方向つまりダビデの神話がクリシュナの神話に伝播したのだろうというのが定説らしく、インド人でさえそう唱えるそうである。しかし時代などを考慮してもインドからイスラエルに伝播したと考えるのが自然であり、なぜ逆の考え方が定説なのかといえば、要するに聖書の存在には誰も逆らえないということだろう。もっといえばユダヤ人の最大の英雄が実際には他文化の影響による「創作」であったとしたら、もはやイエスの存在そのものに関わる。メシア思想というのは「ダビデの再来を待ち望む」というのが基本であり、その人物がそもそも架空なのであれば、根底から成り立たないからだ。

クリシュナとクル族

クリシュナが「マハーバーラタ」においてバガヴァットを説くのは有名であるが、以前の文章で述べたように、クリシュナとクル族は同じ側の存在ではない。クリシュナは明確に太陽神であり、クル族は月信仰の代表である。ではなぜマハーバーラタに彼が登場するのかだが、例えばそれが書かれた当時にあまりに偉大な存在であったためその威光を欲して登場させたとか、それを書いた当事者が自らを逆の側の存在だと偽るために登場させたとか、いろいろ考えられるがよくわからない。クル族は月信仰側の存在であるが、アーリア人だったのか土着系の人々だったのかもはっきり判断し難い。
聖書における最初の人であるアダムは「土」という意味だが、土の色は何色なのか。KRISHNAは「黒」という意味だが、以前の文章で述べたようにインドラとシヴァは茶色である。第二次大戦前のドイツにあったオカルト団体のうち有力なものに神智学協会というのがあったが、彼らの主張の一つに「旧約聖書におけるアブラムがアブラハムと改名した理由は『ABRAHAM=A_BRAHMA』であり、つまり反バラモンということである」というのがあった。ナチズムは盛んにアーリア人という言葉を喧伝したが、バラモン教というのは「アーリア人至上主義」であり、ナチズム同様「自分たちだけが人間だ」という選民思想的なものだとの説がある。ヘブライ人は反バラモンであるとの理屈により、ユダヤ人はアーリア人の敵なのだという主張の論拠の一つになったのが、このオカルト団体の主張であった。言うまでもなくイランという国名はアーリアンという語に由来する。
本来土の色は黒いはずであるが、茶色であると偽りの認識を人々に浸透させている者たちがいるのだろうか。「クル」と「黒」は発音上は似ており、日本に漢字が渡来したのは仏教と一緒にである(はずだ)から、クル族が自らを「黒い者」と名乗って(偽って?)いたとしたら、日本でもそれに関連するものには黒という漢字が付くかもしれない。
カフカズ地方のグルジアという国はキリスト教国であるにもかかわらず、その国旗に「三日月のマーク」をずっと使っていた。またその西側には黒海がある。グルジアの語源はともかく、昔西域に「弓月城」という国があってクルジア(クルジャ)と呼ばれており、弓月=三日月である。弓月君が秦氏と関連があるのは非常に有名である。また以前の文章で述べたように、インドの九耀のシャニは土星だが、土星はイスラエルの守護星とかイスラエルの第二の太陽とか呼ばれるそうである。土=アダムなので、熱烈なクリシュナ崇拝者のシャニが土星なら、やはり土の色は黒くないとおかしい。
クル族がアーリア人なのか土着系の人々なのかは釈然としないが、「KR」と「CR」は明確に違うはずである。自らの存在を偽るために逆の主張をすることはいつの時代でもある。

堕天した者たち

「インドに来たのか、インドから出て行ったのか」というのは非常に難しい問題であるが、確かに定説通り「インドに来た」と考えないと説明出来ないこともあるし、逆に「インドから出て行った」と考えないと説明出来ないこともある。もし後者の通り「インドが文明のスタートでそこから皆出て行った」と考えるならば、エデンがインドにあったということになる。これを前提として考えてみたい。
もしエデンがインドにあったのなら、そこには当然土着の人々しかいなかったはずであり、つまり色の黒い人々がそこで暮らしていた。ゆえにアダム=土の色は黒い。九耀のシャニの如くクリシュナを崇拝する者が大勢おり、クリシュナがヤーダヴァ族の長であり指導者であったわけだから、ヤーダヴァ族がエデンを統治する一族であった。しかしそこから離れる者が出る。神の最も傍にいた者(たち)がそこを離れ、違う場所へ行く。それはすぐ北西の土地だったかもしれないが、つまり「堕天」である。堕天使は悪魔となり神の障碍になる。「ヤーダヴァ」という言葉は「YADAVA」と書くが、もしこれを「YAHDAWAH」と書き、堕天した者たちの象徴である例えば「鳩=DOVE」がそこから抜ければどうなるか。母音は不要なので「YHDWH」から「DV」を抜くと「YHWH」が残る。
「赤い鳩」というのが何を意味するのか私は知らないが、もしこれが事実なら、エデンの指導者たちだったグループから離脱して堕天したのがサタンだろう。

[補足]

アダム=土の色は黒いが、エデンで暮らしていたのは色の黒い人々だけではなかったかもしれない。正確にはいろいろな色の人々が暮らしていて、指導者たちのグループにもいろいろな色の人たちがいた。指導者たちの長であったクリシュナはもちろん色が黒かったが、つまり簡単に言えば「歴史時代とは逆」に、色の黒い者が色の白い者(たち)を指導していた。そこを離脱した色の白い者たちが色の黒い者たちに戦いを起こした、ということかもしれない。
「カースト」という語はポルトガル語の「カスタ」が語源であり、カースト制度はインドで元々「ヴァルナ=色」と呼ばれていた。「バラモンは白く、クシャトリヤは赤く、ヴァイシャは黄色く、シュードラは黒い」という言葉通り、元々肌の色つまり人種でその階層が決まっていた、というのが定説である。かつて「黄禍論」というのがあったが、ヴァイシャは黄色くまたユダヤ人も黄色いし、言うまでもなく日本人も黄色い。白と茶色を混ぜると黄色になるのは示唆的である。現在は白色人種・黄色人種・黒色人種はいても赤色人種というのはいないので、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
歴史時代においては色が白いほど偉く色が黒いほど卑しいというのが世界のスタンダードだが、かつて自分たちを指導していた「黒」を意味する者への嫉妬とルサンチマンから、色の白い者たちは色の黒い者たちに復讐すべく歴史を動かし、同時に自らを逆の立場の存在だと偽ってきたのかもしれない。現在本当に黒い者たちは人類の範疇外に置かれ、それを打開しようにもマトリックスが頑丈すぎて人々はそれを壊そうという発想すら無い。「黒」という色にマイナスのイメージを普遍的に植え付けた方法は、万能足り得ない科学の力によるものではないだろう。

[2008/10/11]

④ガネーシャとイエス

インドにおける月神ガネーシャ

インドにおいてシュードラというカーストがあり「奴隷」と訳すことは高校でも習うしよく知られている。前回述べたように、奴隷である以上ご主人様がおり、それはアーリア人であるが、「シュードラは黒い」と言われまた世界のスタンダードとして色の黒い民族=社会の下層であるので、シュードラが非アーリアンであり土着系である可能性は極めて高いと言える。
インドの神々はそれぞれ多くの化身(アヴァターラ)を持ち各々の神が様々な要素を吸収しているが、シュードラ=奴隷カーストの主神はガネーシャであると言ってしまうことに特に異論は無いと思う。ガネーシャは有名な神で、頭が象で体が太鼓腹の人間の姿をした神である。現在では「知恵と利益の神」「学問と商売の神」としてとても人気があるが、反面「崇拝を怠ると恐ろしい罰を与える神」という側面も持っている。「ガネーシャ」「ガナパティ」共に同じで、「群衆の主」という意味である。
なぜ頭が象になったか、という理由としては幾つかのエピソードがあるが、その中で興味深いと思われるのは、九耀(スーリヤ)のシャニに関する話である。「シャニがあまりにもクリシュナを崇拝しすぎていたため、その妻が妬み彼を邪視(=EVIL EYE)にしてしまった。そのためシヴァとパールバティーの間に産まれたばかりのガネーシャをシャニが見たら、ガネーシャの首が飛んでいってしまったので、やむなく象の首を代わりに付けた」というものである。
シャニは九耀では「土星」であり、シャニ=SUNNYであり、クリシュナ崇拝者で土星=土=アダムということで、「クリシュナ=太陽=土=アダム」と結びつく。またガネーシャの首が象になった原因であるので、ガネーシャが恨みを抱く対象でもある。ガネーシャは仏教の天部の一人でありゆえにDEVAであるが、「聖天」「歓喜天」と呼ばれる。DEVAである以上月信仰側の神であるが、それが九耀のシャニと反目する関係にある。ここでも太陽信仰と月信仰の対立を見ることが出来る。
インドにおけるガネーシャの別名は「魔人の主」で、前回述べたように「シュードラ=ヒドラ」であるから、ヒドラの主である。ガネーシャには「十字路の神」という側面もあり、悪魔崇拝のサバトとの関連もあるので、やはり魔人の主という別名には正当性がある。「十字路=CROSS」であり、前回述べた幾つかの言葉と同様「CR」が付く。
付け加えると、サンスクリットで蛇のことを「NAGA」というが、NAGAという語には「象」という意味もある。

日本における賤民とガネーシャ

密教において象頭の二人の人間が抱き合っている像があるが、あれが歓喜天であり、セクシャリズム・性的祭祀を教義とするいわば秘教的なセクトで用いられると言われる。日本でガネーシャを祀った場所、つまり聖天が祀られている場所は少なくないようであり、例えば奈良県の生駒山とか、浅草の待乳山などがそうである。インドにおいても奴隷カーストの神であったが、日本においても賤民の信仰の対象になっているケースは少なくないと思われる。
ガネーシャの異名である「ガナパティ」を漢字で書くと「我那鉢底」であり「ガナハチ」と読む。いわゆる「八の民」の「ハチ」の語源は定かではなく、八ヶ岳の八ではないかとか托鉢僧の持つ御鉢の鉢ではないかとか、また「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之助の蜂屋衆もハチがつくとかいろいろな説があるが、どれもいわゆる賤民と関係があるといって差し支えない。仏教国の日本でもガネーシャつまり聖天は当然下層の民衆の信仰の対象だったはずであるから、「ガナハチ」から「ハチ=八」になった可能性もあるだろう。
インド神話の一つによれば、「ガネーシャはパールバティーが自分の垢から作った」ということになっている。この「あか」という言葉・発音であるが、まず「あか=赤」でありCRIMSONである。また仏教に「あか棚」というのがあり水を入れるそうだが、日本の漁民の間で古くから(海)水のことを「あか」と呼んでいたという説があるので、「あか=AQUA」でもある。つまり赤い色を崇拝し尚且つ海や水と関連のあった人々がいたなら、同じ発音である「垢」でできたガネーシャと関連があることは不思議ではない。発音が同じ言葉は何らかの関連があるという考え方は基本であるからだ。もしそのような人々がいたとすれば、平氏などはかなり関連性が疑われて然るべきだろう。平氏のポジションや存在というのも大変複雑で難しいが、彼らは海民と繋がりがあり赤旗をシンボルにし、また「驕る平家は久しからず」という発想はバラモン教と大変近いと思われる。
ちなみに「朝」つまり「MORNING」のことを「暁=あかつき」というが、これが「赤月」ならば文字通り「RED MOON」であり、イランの古代語でアサ(アシャ)は火・法・正義の意味である。「MOONING=月であること」が「MORNING」になったのなら大変面白い。

油を注がれる者

インドにおいて、ガネーシャは祀られる際に「ギー」という油を注がれることが知られている。ガネーシャの像の頭から油をかけて祀る風習は現在でも残っていて、また歓喜天にも油を注ぐ教義が存在する。大変興味深いことだが、ヘブライ語の「メシア」も「油を注がれる者」という意味である。ガネーシャはインドの(人間だと見なされている上から4つのカーストの中での)最下層カーストの主神、ヘブライ人は要するにユダヤ人であるがイエスを輩出した民族である。
日猶同祖論の是非はこの際置いておいて、基本的に世の中がヒエラルキーだとすると、日本においても最下層は賤民で最も数が多いことになり、彼らの信仰の対象としてガネーシャが存在したことは否定出来まい。部落解放同盟という団体があるが、この団体のシンボルは「荊冠旗」であり、イエスが処刑される際に被せられた物がシンボルになっている。彼らがなぜこのマークを採用しているのかはともかく、仮に彼らが何らかの形でユダヤ人・ヘブライ人と関係があり、尚且つガネーシャを崇拝する思想を持っているのなら、共に「油を注がれる」という要素でイエスとガネーシャは結び付く。
キリスト教のシンボルは十字架=CROSSだが、この単語のスペルにもCRが付き、もちろん十字架というオブジェのルーツを考えれば一概にクル族やガネーシャと関連付けるのは難しいかもしれないが、結局「賤しい人々の中から現れた者が世を救う」という発想はここでも肯定され得るわけである。

[2008/09/23]

③インドに来たのか、インドから出て行ったのか

インドラとシヴァ

元々アーリア人つまり印欧語族はユーラシア大陸の中央付近にいて、そこから西へ向かった者がヨーロッパ人となり、南へ向かった者がイラン人やインド人になった、というのが定説である。「インド=ヨーロッパ語族」であるから、インド人とヨーロッパ人が同じ語族だということであり、よく知られている。印欧語族が移動を始めた時期にヒッタイトが消滅し、彼らが印欧語族系であったため、なんらかの関係があるのではないかという説があるが、明確にはなっていないようである。
サンスクリットで「神」はDEVAで、ラテン語ではDEUSであるが、これは印欧祖語の語根「DE」からきている。「DE=天」であり、よって神は天に居るという考えである。南下したアーリア人にとって、最初の主神はインドラだったが、彼はやがて「侮蔑され、呪われ、唾を吐きかけられる」ような存在へと降下し、その存在は非常に矮小なものになってしまう。その後アーリア人の主神として台頭するのがシヴァで、現在はインドの二大神の一人である。
インドラとシヴァは似た特徴を少なからず持っており、暴風雨神の性格を持ち、金剛杵を持ち、髪も肌も茶褐色であるなど、片方がもう片方へ進化したような感がある。有名なインダス遺跡には原初のシヴァ崇拝の痕跡があるといわれるが、インダス文明が誰の手によるものか判明しない以上、これをそうだと断定はし難い。アフリカ大陸の東にあるマダガスカル島は言語区分でインドと同じであるが、古代のシヴァ崇拝の痕跡が残っている。つまりインドからアフリカ東岸まで航海した古代の人々がいたわけだが、こういったことがどの程度の範囲で行われていたかはわからない。
インドラ崇拝とシヴァ崇拝が同居していた時期があったかどうかは私は知らない。インドラ=帝釈天であり、シヴァ=自在天・大黒天であるが、「帝釈天」は読んで字の如く「釈の帝たる天」であり、釈は釈迦の一字で、釈放と解放は同義である。日本の出雲におけるスサノヲとオオクニヌシが「スサノヲ→オオクニヌシ」の方向であるから、オオクニヌシが大黒天であり「インドラ→シヴァ」の方向であれば、インドラ=スサノヲといえるかもしれない。

不思議と似ているもの

アーリア人が月信仰であったことは否定のしようが無いと思われるのでそれを前提とすると、「DEVA=月神」ということになる。であれば共通のルーツを持つヨーロッパ人の神も月神ということになり、「DEUS=月神」となってしまう。英語の「悪魔」つまり「DEVIL」の語源はラテン語の「DIABOLO(S)」だが、語幹の部分でサンスクリットの「DEVA」と対応している。もしアーリア人の神が月神だったら、それが悪魔の語源になっても不思議ではない。だがもしそうであれば、ラテン語のDEUSも悪魔になり、そこから派生した「神」を表す語は、全て悪魔を意味することになってしまう(ちなみにサンスクリットで「牛」は「GO」である)。ジプシーは元々インドにいた印欧語族だと言われているが、彼らの言葉で「神」は「DEVEL」である。つまりDEVAとDEVILの中間の段階である。
シヴァのシンボルの一つに「三叉矛」があるが、これはヨーロッパの悪魔が必ず持っているシンボルである。月神であるシヴァのシンボルを悪魔が携えているのは何故か。三叉矛は世界各地の神話によく登場し、「神が水の中の龍を三叉矛で刺し殺した」というモチーフはあちこちにある。インドにおけるその神話を見ると、結局「龍=牛」になっているが、これが極端な話バール崇拝とどう繋がるのかはわからない。「バラモン=バール・アモン(=天のバール)」だとしたら大変面白いが、これを論じた人を私は知らない。インダス文明における原初のシヴァ崇拝の痕跡を見ると「角の付いた仮面を被ったシャーマン」の図像があるそうだが、これらが全て繋がり「龍≒牛≒邪悪の象徴≒バール」であり世界の悪が一つの根源に収束するなら一大転換だろう。

S→Hか、H→Sか

インドにおいてアーリア人は上層、土着の人々は下層であるが、当然バラモンはアーリアンである。アウトカーストを除く4つのカーストの最下層はシュードラで、「奴隷」と訳される。奴隷であるから当然御主人様がいるわけで、それはもちろん最上位のカーストである。「バラモンは白く、クシャトリヤは赤く、ヴァイシャは黄色く、シュードラは黒い」という言葉があるが、バラモン教はバラモンの宗教、仏教の開祖のゴータマはクシャトリヤの出身であった。アウトカーストはチャンダーラと呼ばれるが、その下に更にプツクサという最下層があるともいわれる。
インドにアーリア人が南下してきてインドを征服し、カーストを成立させると、バラモン教が存在する状態で仏教が新しく生まれ、両者は対立する。DEVAとASURAは元々仲が良かったが、結局仲違いする。ASURAはどこかへ行ってしまう。ゾロアスター教のアフラマズダの「アフラ」がアスラと同じであることは有名だが、今現在はアフラがアスラになった、つまりアーリア人が南下してきてイランを通りインドへ向かう際に、アフラ→アスラに転訛した、ということになっている。つまり「H→S」という変化をしたことになっている。
ここで少し考えたいが、「H→S」つまりアーリア人はインドに「来た」のか、それとも「S→H」つまりアーリア人はインドから「出て行った」のか。これを考えると多分に象徴的である。

もし「H→S」つまり現在の定説通りなら、
・火から死になる。つまり拝火的である。
・HE→SHEであるから、アダムからエヴァが産まれたという聖書の記述と一致する。
・HITO→SITOであるから、人が神に近づこうという発想に近い。

もし「S→H」つまりインドから皆出て行ったのなら、
・死から火になる。つまり手塚治虫の「火の鳥」のモチーフと同じである。
・SHE→HEであるから、女から男が生まれるという自然の摂理通りである。
・SITO→HITOであるから、元々人類は神の傍に居た存在だといえる。

海はSEAで太陽は日つまりHEだから、海から太陽が昇るというのは、S→Hであり、母なる海の母体から生まれた太陽が男だということになる。海でなく大地が女でも同じで、大地母神の胎内から男が生まれてまた胎内に戻る。太陽神は男神に決まっているから、大地は女=SHEで、死ねば大地に埋める。アダムとは「土」という意味である。日本の太陽神はアマテラスであるが、「アマテラスは元々男神だった」という説があり、もしそうなら日本においても古代の太陽神は男だったことになる。つまり古層とその上から被さった新しい層がどこにでもあって、古層はどこでも共通していることになる。
インドに話を戻すと、高位カーストであるアーリア人がDEVAだから、彼らが御主人様となり奴隷を引き連れる。奴隷=SYUDRAであるがSはHに変わるのでシュードラはHYUDRAであり、ヒュドラつまりヒドラである。そうするとシュードラというカーストは魔物の群れということになり、その主神であるガネーシャが魔物の主であるのは当然である。
余談であるが、ガネーシャはシヴァの息子であり、シヴァの別名は「パシュパティ=獣の主」である。「獣」という漢字は「ジュウ」とも読め、「JEW」がユダヤ人のことであるのは言うまでもない。

スタートかゴールか

では結局インドに皆は「来た」のか、それとも皆は「出て行った」のかであるが、観念論的ではあるが、もしインドに来たつまりインドがゴールであれば、「文明の最終到達点はインドのカーストのような差別社会」ということになり、逆にインドから出て行ったのであれば「文明のスタートはインドのカーストのような差別社会で、そこから平等な社会へと進化する」と考えることが出来る。
御主人様に引き連れられたヒドラたちが外へ出て行って街を荒らし回ったのか、それとも暴れ回っていたヒドラたちがインドへ追い込まれたのか。前回「シヴァのシンボルは現在世界でばらばらになっている」と書いたが、来たのか出て行ったのか、これは大変難しい。どちらの可能性を考えても正当性が存在する以上、定説を覆すことは困難だろうし、意見は二分するだろう。少なくとも「アダムからエヴァが産まれた」という聖書の記述に逆らうことは誰にも出来ない。
全ての文献なり物証なりが本当なのであれば答えは一方通行のはずだが、そうならないのは嘘が多分に含まれているからだろう。「嘘・偽=false」であり、そのまま読めばファールスである。

[2008/09/10]

②インドの太陽信仰と月信仰

インドにおける太陽信仰と月信仰の対立

インドにおいて太陽信仰と月信仰の対立が見られるのは、まず古代の十六大国時代である。この時代に「各国が太陽信仰側と月信仰側に分かれて争っていた」ということが言われているが、どこまで詳細が判明しているかはわからない。
アーリア人は元々ユーラシア大陸の中央部に居住していて、南下した者がイラン・アーリア人とインド・アーリア人になったというのが定説である。「アーリア」というのは「高貴な」という意味で、ナチズムがこの言葉を盛んに使用したため、現在では印欧語族という呼称が採られることが多い。イランという国名はアーリアンという言葉に由来するというのはよく知られている。アーリア人がインドに来た後に十六大国時代になり、その後結局アーリア人がインドを支配しているから、「アーリア人の側の信仰」がインドの支配原理になったわけである。

ではアーリア人は太陽と月どちらの側であったのか。インドの三大神として、ヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーの名がよく挙げられる。しかし実際にはブラフマーはその名の通りただのバラモンの神で、現在の存在意義を考えても、ヴィシュヌとシヴァが二大神と言ってしまってよいだろう。ヴィシュヌを描いた絵を見ると肌の色が白く、シヴァを描いた絵は肌の色が黒いが、ではどちらがどちらの、つまりどちらがアーリアンの神でどちらが土着の人々の神だったのか。
ヴィシュヌは太陽神であり、その化身としてクリシュナやラーマなど、とても人気の高い神を取り込んでいる。ブッダ(というより仏教の開祖のゴータマ)も化身の一人だが、ヴィシュヌ教の中での存在は否定的なものらしい。クリシュナの別名がダーサ(奴隷)で、クリシュナもラーマも当然土着の神である以上、本来ヴィシュヌはアーリアンの神とは呼べない。ではシヴァであるが、別名がソーマナータ=月の主であるから、当然月神である。仏教に「天部」というのがあり、「天」=DEVAで、ヒンドゥーの神が仏教に取り入れられて「~天」という名になったものである。この中にはインドの主要神はほぼ取り入れられているが、クリシュナとヴィシュヌは入っていない。この両者は太陽神であるから、それが取り入れられないのは仏教が(元々)月信仰側の思想だからである。もっと言えば、DEVAは「神」と訳されるが正確には「アーリア人にとっての神」であり、普遍的な神ではない。よって、ヴィシュヌと特にクリシュナはDEVAではない。彼らは土着系の神だからである。結局アーリア人が月信仰であり土着の人々が太陽信仰であるため、アーリアンによる思想であるバラモン教や仏教は月信仰で、それ故クリシュナやヴィシュヌのような太陽神は除外された、といえる。

ではシヴァがアーリア人の神だと断定してよいかというと、それは即断しがたい。基本的にシヴァにはアーリアンの要素と土着系の要素が混在しており、確かに月神ではあるが、どちらの側だと明確には判断しがたい。シヴァにはいろいろなシンボルが付随している。「月(三日月)・牛(角)・蛇・三叉矛・第三の目」である。よく考えるとこれらは現在世界中でばらばらになっている要素であって、それらが全て集合している。例えばこれらのシンボルの各々を持っている各部族の部族集合体の神だったのか、それはよくわからない。現在これらの要素が世界でばらばらになっているのなら、インドから皆出て行ったと考えることも出来るが、その確証はどこにも無い。肌の色はこの際重要ではない。ヴィシュヌは白くシヴァは黒いが、シヴァは体に火葬場の灰を塗っているため、塗らなかったら白いのかもしれない。アーリア人がインドを支配している以上、善なる存在が肌が白く悪なる存在が肌が黒くないと困るのは当然であろう。アーリア人の肌は白いからだ。
普通に考えるなら、元々インドには土着の人々しかいなかったわけで、そこにアーリア人が南下してやって来る。月信仰を持ったアーリア人が太陽信仰を持った土着の人々と争いになる。土着の人々の中にはアーリア人の側に付く者もいただろう。そして太陽信仰と月信仰の側に分かれて争った結果、月信仰の側が勝利し、太陽信仰の人々は最下層に落とされる。ガンジーがインドのアウトカーストのことを「ハリジャン」と呼び、「ハリジャン=神の子」と訳されるが、これは正確ではない。「ハリ」はヴィシュヌ・クリシュナの意味であって、正確には「クリシュナの子」という意味である。よって単純に考えればアウトカーストというのは古代の太陽信仰の人々の末裔なのかもしれないが、それを証明する手段は今のところ無い。

クル族について

よく本屋へ行くと、古代の超文明とかに関する本が売っているが、不思議なほどインド特にクル族に言及しているケースが多いように思う。十六大国時代にクルという国があり、「クル」は「kuru」である。よく知られている「マハーバーラタ」の中心となる部族である。マハーバーラタにクリシュナが登場し、バガヴァットを説くことは非常に有名で、キリスト教の世界でもクリシュナやバガヴァットの存在はよく知られているようである。しかし多くの人が誤解しているが、クル族とクリシュナは基本的には関係が無い。関係が無いというのは正確ではなく、「クリシュナ=クル族側の神」とは言えない、ということである。
クルはkuruと書くが、今現在は「cr」と書くべきであろう。英単語のcrescent、crazy、crimson、crashなどは、全て彼らに由来する。よって月信仰側の存在であり、クリシュナと同じ側ではありえない。シヴァの職能は破壊=crashで、ブラフマーの職能は創造=create(creation)であるが、「クルの灰」と書いて破壊であるのは面白い。
要するにシヴァがどちらの種族系統の神か判断しがたいのと同じで、クル族もどちらの系統かは判断しがたい。現在英語で「キリスト」と書く際にはchristと書き、hの字が入っているが、これがなんらかの作為や恣意によるものかは各自で考えればよいだろう。

[2008/09/08]