宇宙は99%

神を信じるというのは、神のいうことを何でも聞くということではない。迷った時に「神様っているのかなあ、いないのかなあ、いるはずだよなあ、よし神様がいると信じよう」と、神の存在を「信じる」ことである。それは、神の存在に疑いを抱かないことではない。疑いながらも、とりあえずいると信じる、それが神を信じること、だ。
俺は、神というのはこの世そのものだと思っている。この世というのは、要するに全宇宙だ。この地球も、月も、太陽も、宇宙の一部である。つまりこの全宇宙そのものが、神と等しいと思う。
宇宙は絶えず膨張していて、それは終わることがない。遙か太古のビッグバンの時から宇宙は膨張を続けていて、それは永遠に続く(だろう)。もし宇宙が終わる時は、熱的死を迎える時だとか、科学的な理論があったような気がするが忘れた。
とにかく宇宙は無限に果てしなく、終わりがなくて、ということはつまり果てがないのだから、どこまで行ってもそれは99%だということだ。有限であればどこかで100%に達するはずだが、果てがないのだから終わりまで到達してもそこは99%のはずである。
そう、この世は、常に99%の状態を保っている。故に完全なものなどどこにもない。
そして人類最大の命題である「神は実在するか?」という問い、これに対する答えも簡単に導き出すことが出来る。それは「絶対にわからない」だ。何故なら、この世つまり全宇宙が99%である以上、それに重なり合う神という存在も、99%でしかありえないからだ。99%までしか存在し得ないこの世に100%重なり合う神、その存在をどれだけ探求しようとも、その答えは99%までしか導けない。99%の100%は99%である。
よって神が実在するかどうかという問いの答えには、どんなに頑張っても99%までしか辿り着けない。だから絶対にわからない、のだ。それが神という存在の本質である。そしておそらく、その残りの1%に悪魔が入り込んでいるのだろう。
故に我々は、神を信じるしかない。いるかいないかわからないが、いることを信じるしかない。それが「神を信じること」である。それは確かに苦しい。確証のないものを信じることほど苦しいことはない。けれどおそらく、皆感じているはずだ。身の回りの自然現象、それは風のせせらぎだったり、大気のうねりだったり、葉の擦れる音や、鳥の囀りや雷鳴の轟きだったりするかもしれないが、そういった有象無象の現象の中に、神の存在を確かに感じることがあるということを。そう、神はこの世つまり宇宙そのものである。だからそこにいるのだ。
もちろんそれに関しても確証はない。何故ならどれだけ突き詰めようとも、答えは99%だからだ。この世の究極の問いの答えが99%なんだから、我々が迷える存在なのは当然だ。だから「神様っているのかなあ、いるはずだよなあ、信じるしかないよなあ」と神様を信じて生きるのだ :-p

[Thu, 31 Oct 2019]

狐の嫁入りについて想像

「狐の嫁入り」について個人的想像。

狐が何を意味するかだが、狼と犬と狐は同じフォルムなので、同じトーテムを意味するはず。狼はオオカミという発音から、大神神社つまり大三輪神社への信仰を持ち、国津神を奉じる人たちだった。狼はベニヤミン族のシンボル。そのためか世界中で狼という動物は悪者にされ、日本では絶滅させられてしまった。
狐は「女狐」といい英語ならFoxyとかVixenというが、つまりこの人々の女性を意味する。その嫁入りが狐の嫁入りだが、狐というのは稲荷神社の眷獣である。稲荷は「稲の荷」と書くから米俵のことで、食べ物のいなり寿司はこれと同様に米を包んだ食べ物。だから稲荷神社は稲作と関連するはずだが、稲荷神社では狐にお稲荷さん(油揚げ)を捧げる。
そして稲荷神社の特徴は、鳥居が何重にも連なっていること。鳥居というのは神社を参拝する際に人が頭を下げる、神が見下ろしている場所で、これが連続するのは「頭をペコペコ下げ続けろ」ということのはず。
慣用表現に「鳶に油揚げをさらわれる」というのがあるが、狐の好物の油揚げを、鳶が空から奪おうとする。では鳶とは何かというと、広島市内に行くとわかるが、街の低い上空を鳶がたくさん飛んでいる。平和公園などは何羽もの鳶がすぐ上空をクルクル廻っているのが見える。もし広島地方で鳶がトーテム動物なら、それが狐から油揚げを奪おうとする。

つまり国津神を奉じる古層の人々が米を献上したり女性を貢いだりする際に、頭をペコペコ下げねばならず、それは鳶に象徴される人々の好物なのだ、という寓意だと思う。嫁入りというのも結局、古層の人々の女性が好きでもない男のもとに嫌々嫁がねばならない風習があり、それを村の人々が見送る風習だったのでは。
稲荷神社で狐が眷獣なのは、そういう嫌々嫁がされた村の女が狐の姿で祀られているのであり、油揚げを捧げるのは彼女たちへの供養だろう。

源氏と山窩などについて

いわゆる「山窩」を扱った書籍に新國民社「倭と山窩」があるが、これに三角寛の報告として「山窩はそのシンボルとして両刀の短刀ウメガイと、自在鉤テンジンを持つ」とある。字面だけ見れば「ウメガイ」は太宰府天満宮に梅が枝餅(うめがえもち)があり、そこで祀るのは天神さまである菅原大自在天道真だから、これと関連するように思える。ただし三角寛は朝日新聞社社員で、同紙に山窩小説を連載していた人物なので、情報の真偽はやや疑わしい。
また山窩が南西諸島や沖縄と共通した習俗を持つともあり、加えて彼らはいわゆる卑賤の身分ではあったが、その生業の「箕作り」が弾左衛門の支配下ではなかったともある。
また太陽崇拝の習俗を持ち「朝起きると朝日に向かって手を合わせて拝む」ともいう。

これらを合わせると、山窩というのは天神信仰の人々で、源平合戦で南方に逃れた源氏と共通の習俗を持ち、弾左衛門とは関係なかった、となる。以前リンクを張った「https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12215672517」に「琉球尚氏-清和源氏、源為朝の子孫」とある。

石田英一郎は日本古層(北端?)と琉球の神話の類似性を述べるが、埴原和郎の二重構造モデルの骨子は日本の南北両端で形質人類学上の同じ特徴が見られるというもの。
そして手塚治虫の「火の鳥・太陽編」で日本古層として登場する部族は服装がアイヌ装束であり、ヒロインの名は北海道の生物「マリモ」だから、手塚治虫も古層民族はアイヌだと考えていたはず。それが狗族つまり狼族なので、以前の文章で述べたようにベニヤミン族なら、これが大神(おおみわ)神社つまり大御倭神社で国津神を祀る人々だったとなる。

つまり上述の情報がみな正しいのなら、日本の古層民族が源氏であり天神信仰と国津神を奉じる太陽崇拝の人々で、アイヌと南方の人々も同じで、山窩と呼ばれた卑賤の人々を含んだが、弾左衛門と無関係、ということになる。

死海文書について多少

死海写本について見ると、善悪二元論や終末論を持つのは言うまでもないが、旧約聖書冒頭の「神は人を作られた、男と女に作られた」を挿入したのはクムラン宗団らしいこと、一夫一婦制を重視するのにダビデにのみ複数の妻を持つのを許すこと、ヘロデ大王がエッセネ派を評価し尊敬すること、精霊を重視することなど、グノーシス側の文献ではないかと思われる点が多い。

ダビデの末裔である王的人物とアロンの末裔である祭司の、二人のメシアを待つというが、このうち祭司が上位になり王を下位に置くのは、インドでバラモンが最上位カーストでありクシャトリヤがその下であるのと同じである。また両者を兼ねた祭祀王つまりシャーマンキングがメルキゼデクだが、新約聖書にイエスがメルキゼデクに比せられる記述があり(ヘブライ人への手紙4.14-5.10)、イエスもまた祭祀王の役割を担っている?ただ聖書でイエスは「ダビデの枝」とは呼ばれないという。

日本の宮中祭祀で天皇が祭司になり神に祈りを捧げるのは祭祀王であり、大地に男が立って空の太陽女神(天照大神)に祈りを捧げるのは、普通の太陽信仰つまり「大地に巫女が立ち空の男性太陽神に祈りを捧げる」のと逆である。男性天皇が大地だからアダムで、これがメルキゼデク同様の祭祀王。そして精霊による「アダムの栄光」を重視するが、天皇の威光の重視、つまり男性支配の原理による統治と同じである。

「偽りの人」は「イーシュ・ハッカーザーブ」「イーシュ・ハ・カザフ」で、カザフはkazabhである。

またアドルフ・ヒトラーについて、エヴァ・ブラウンのことを従来「~という名前だったと言われている」と但し書きされ断言されなかったのは、エヴァの夫であればそれはアダムであるから、彼が新たなアダムになろうとしていたという、エ◯ンゲ◯オンの内容と符合する。

フェルガナと猫の鈴

新國民社の書籍に書かれていたので真偽不明だが『「鈴」という漢字は百済から伝わったものではなく契丹文字に由来する』とあった。「鈴」のつくりは「金へんに令(order)」だから、金が支配するというつくり。そして日本の神社の賽銭箱の上には綱がぶら下がっていて、それを揺らすと上部にある鈴がガラガラ鳴るけど、これは神社によってあったり無かったりするように思う。
鈴とセットになっているのは猫かな?以前「CATもGATOもGATEもGhettoも音がみな似ている」と書いたが、もし仮に猫が偵察生物(笑)だとしたら、それに鈴がついてて、じゃあ誰が放った偵察生物なんだろう。神社で参拝する時に上から鈴がガラガラ鳴って「金がorderしているぞ」みたいなイメージ。

契丹はキタイだが、ロシア語で中国をキタイスキーというのは契丹(族)がそれだけ重要な位置づけだったかららしい。後にその国は西域へ移動し西遼を建てるが、カラ=キタイと呼ばれ「カラ」とつく。そもそも唐もカラだが国家体制を考えたらCRだろう。

中央アジアのフェルガナ地方・タジキスタン・キルギス(クルグス)は同一エリアだが、やはりクルグスもCRだし、フェルガナ地方はゾロアスター教に関連するというし、タジキスタンはイラン(ペルシャ)系で、カラ=キタイはこのエリア。シルクロード交易の経由地でブハラ・ユダヤ人というのもいるという。
カラ=キタイの王族は仏教徒で、中央アジアで中国に仏教を伝えたのはソグド人と下記URLにある。彼らはゾロアスター教を信仰し、タジキスタンでずっとソグド州の出身者が共産党トップになっていたという。またウズベキスタン南部の商業都市は彼らイラン系の住民が多いらしい。フェルガナ地方は汗血馬の産地として知られるが、コーカンド・ハン国の時代に宗教センターのような役割を果たしていた。
かつてウズベキスタンでティムールを英雄視する運動があり首都はサマルカンドに置かれたが、1930年代にタシケントに変更されそこには世界最大のレーニン像が建っていた。現在その像は撤去されティムールの像が置かれている。
https://www.heritageinstitute.com/zoroastrianism/uzbekistan/index.htm
https://www.y-history.net/wh_travel/09_1toshkent.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ソグド人
https://ja.wikipedia.org/wiki/ブハラ・ユダヤ人

ソグド人は元々タジキスタンのザラフシャン川流域に住んでいたそうだが、この名前は「ザラスシュトラ」と同じ語源だろう。「ペルシア語で上流で砂金が取れることに由来する」とあり、以前はソグド川と呼ばれたとも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ザラフシャン川

カラ=キタイはプレスター・ジョン伝説の由来という説もあるそうだ。
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-029_1.html

昨年キルギスと日本が何かの経済協力だか外交関係だかを締結とニュースで見たが、先日のロシアの銃撃テロの犯人はタジキスタン国籍と報じられた。
中村元は「パキスタンのバルーチスターンのブラーフーイー方言はドラヴィダ語とよく類似し、その他にPastu、イラン系の語を含む」というが、サンスクリットで「パシュ/パシュト=牛、獣」の意味で、アフガニスタンとタジキスタンの軍事関係など興味深い。

上記URLに「モンゴル帝国はカラ=キタイから中国風の統治制度を採り入れたと言われている」「ある意味でモンゴル帝国はカラ=キタイ帝国の継承国家だったのである」とあるが、いわゆる元寇について、日本の歴史では神風が吹いてニ回とも失敗に終わったと習うが、ハッキリ言ってこれはファンタジーで、たぶん何かしらの日本国内への干渉があったはず。
元寇で日本に攻めてきた船団は高句麗から出港しており、モンゴルと高句麗が手を組んでいた。そして当時の日本は北条氏執権下にあり亀山天皇の時代で、この出来事を契機に南北朝の動乱になる。だから大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が皇室をどう構成していたのか不明だが、モンゴル軍を迎え入れた勢力がいたのか、それともモンゴル軍との戦いで国が混乱し皇統の交代があったのか、この辺は日本史最大の謎である。ただ高句麗勢力が船団で来たわけだから、この時点で北朝と接触していたのは疑いないと思う。

下記Wikipediaに「契丹人は、原モンゴル人から鮮卑人を経た子孫であり」とあるが、そもそも古代の中国人は意味もなく漢字を当てないので、鮮卑が「卑しい鮮」と読めるのは果たしてどんな理由なのか。また「相撲」は日本の大相撲の他、外国ではグルジア相撲チタオバ・韓国相撲シルム・モンゴル相撲が有名だが、言うまでもなく同じような文化には連続性があるから、これら民族には何か繋がりがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/契丹

この国はサタンの居城

聖書を使ってユダヤ教とキリスト教を操り、「スメラ=SMR」として須弥山信仰により仏教を操り、弓月君として三日月のイスラムを操り、その聖書の記述により「裁く=JUDGEMENT」つまり「法」を司り、そのシンボルは道の傍らの蛇。
そしてヘレニズム時代にバアルベックは太陽の都と呼ばれ、バアルを太陽神として祀り、バラモンが「バアル・アモン=天のバアル」なら、選民思想のバラモンであり牛神バアルは牛頭天王スサノヲ。スペルは「HELLENISM=地獄化運動」だから、そのバアルがギリシャつまりPOLICEを統べている。

司法・警察をコントロールできれば世の中を支配できるわけで、とんでもない国なんだなこの国って。