稲毛について

あくまでインターネットで調べた情報に拠るけど。

千葉市の稲毛浅間神社と検見川神社の宮司は兄弟だったと聞いた。だから両者は同族によるもの。稲毛浅間神社の祭神はコノハナサクヤヒメで、記紀神話ではニニギノミコトの妻だが、隣に建つ黒砂浅間神社でもともと祀られていて、そこで菅原道真霊と合祀されているので、つまり両者は夫婦。黒砂浅間神社は海岸の砂浜だった場所に建っているから、船で天神信仰の人々が来て建立したとわかる。菅原道真・コノハナサクヤヒメ・八衢比古・八衢比賣は「シヴァ・パールヴァティー・ガネーシャ(歓喜天)」のファミリーなので、黒砂とは「クルの砂浜」か「(大)黒の砂浜」と思われる。
そして検見川神社の祭神はスサノヲ・イザナミ・ウカノミタマで、すぐ裏にコリアン地区があるのはもともとが八坂神社でスサノヲを祀るからだろう。かつてこの一帯は「嵯峨」という地名だったといい、この神社の末社にやはり天満宮と金刀比羅神社があるから、もとはコンピラ水軍に乗って天神信仰の人々が来て嵯峨(佐賀)という土地だった。
稲毛浅間神社の本殿の階段の下に八坂神社があるが、結局この稲毛・検見川の一帯も「もともと天神信仰の土地だったが、後から祇園信仰の人々つまりスサノヲ軍が来て征服した」場所だろう。ニニギノミコトは天孫降臨の主役だから、その妻のコノハナサクヤヒメが主祭神で菅原道真も一緒に祀られているということで、やはり以前書いた通り「天神信仰-コンピラ水軍-天孫降臨」のラインであり、茨城県の鹿島地方と同じである。
また黒砂浅間神社のエリアは、平将門の乱で落ち延びた将門軍の隠れ里だったので、それも天神信仰の土地だったのを裏付ける。

こういう「もともと天神信仰の土地だった場所を、後から祇園信仰(≒天津神)が征服した」というケースはたくさんあると思う。征服側の神社の摂社・末社に被征服側の神社が祀られているのはよくある。
 

http://www.komainu.org/chiba/chibasi/inageku/sengen_kurosuna/sengen.html
https://chiba.jinja.love/?p=8931
https://www.inage-sengenjinja.or.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/稲毛浅間神社
https://www.kemigawa-jinja.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/検見川神社

小さな幸せ

今月でこのサイトに追記するのはやめて閉じてしまおうと思ったけど、インターネットが情報検索のツールである以上、有益な内容は残すべきと思うので、残すものは残してあとは見えなくした。
僕の考えは乱暴すぎて学問ではないけど、説としては面白いと思うし、アイデア・コンセプトとして読んでて面白いと思うし。もちろん僕にしかわからないことだってあるだろうし。

いくら頑張ってもここは世界の片隅、僕は人生のレールから降りてゆっくりのんびりテキトーに行こう。贅沢言わなければそれなりに楽しく暮らせるし。貧乏なら貧乏なりに、貧乏人にしかできない人生の楽しみ方もあるし。「小さな幸せ」を大事にすれば、これまで通りフツーに人生楽しめる。
ずっと会いたい人がいるけど、いつかどこかで会えることを信じて。

僕の人生が幸せな結末であるように。:-)

佐賀について

明治維新の薩長土肥で一番目立たない佐賀肥前藩だが、佐賀市伊勢町には日本で唯一の伊勢神宮の分社があり、大覚寺という寺もあるから、ここに大覚寺統つまり南朝があったはず。肥前藩が「葉隠」を著したのを考えても、明治維新の本当の中心というか精神的支柱になったのが佐賀肥前藩なのは疑いない。たぶん維新後にここの南朝から国の指導者を出すはずだったのが、薩長の連中に利用されて排除されてしまった、のが真相だろう。

日本史の真相はわからず、朝廷が地方王朝から豪族を迎え入れたり、地方王朝の系図を天皇系図にねじ込んだりなどあったはず。大覚寺統は後宇多天皇が京都の嵯峨野の大覚寺で院政を行ったのでその名がついたが、もともと嵯峨天皇の離宮がありそこに清和天皇が大覚寺という寺号をつけた。茨城県石岡市の大覚寺は親鸞ゆかりの地なので、結局「嵯峨天皇-清和天皇-大乗仏教-大覚」のラインになる。
そして「嵯峨」も「佐賀」も同じだから、では佐賀県にもともと王朝があったのか、という話になる。南朝は吉野朝廷だが、佐賀県には吉野ヶ里町があり近くにはみやき(三養基)町があり「宮城=宮様の城」だから、地方王朝(の一つ)が佐賀にあったはず。

そして茨城県の鹿島神宮はもともと西から遷移してきたといわれ、佐賀県鹿島市がルーツという説がある。鹿島神宮は天孫降臨の武甕槌命(たけみかづち)を祀り、東国三大社である鹿島神宮・香取神宮・息栖神社のエリアが本当の天孫降臨の地だったとすれば、それが佐賀県から船に乗って渡来した勢力によるものだったなら、佐賀の王朝こそ本当の日本の王家に当たる。
鹿島神宮の御神体である武甕槌(武御雷)の剣は「猛る御イカヅチの剣」で、雷を武器とするから、つまり天神さまである菅原道真の金剛杵で、これは菅原大自在天道真が「大自在天=シヴァ」で、シヴァが「金剛杵=ヴァジュラ=雷撃」を武器に持つのに由来。そして佐賀県には有明海があるが、おそらく「有明」は「アーリア」の漢訳ではと思う。であればアーリア人の主神はシヴァなので、佐賀県の王朝はシヴァ・大自在天・天神信仰を掲げ、それが南朝だったのでは、そして本当の天孫降臨は彼らだったのでは、というのが自分の考えである。
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/大覚寺統
https://kyotofukoh.jp/report416.html
http://hannari-tabi.seesaa.net/article/369448400.html
https://www.ishioka-kankou.com/sightseeing/bukkaku/page000060.html