新國民社の書籍の読み方

たびたび名前を出す新國民社だが、これは鹿島昇という人物が書籍を発行するために設立した会社のようで、そこから何冊も本を出している。読めばわかるしよく言われる通り、内容はある意味「オカルト・荒唐無稽」に近いもので、ただやはり読めばわかるが事実も散りばめられている。
鹿島昇は書籍に「自分の鹿島という姓は、鹿島神宮に由来する」と書き、また学生時に司法試験に合格しているが「自分は若い頃”ツッパリ”で、よく警察のご厄介になっていた」とも書いている。こうして自分の立場を明らかにした上で、韓国にすり寄って「桓檀古記」を出版したり、頻繁に韓国寄りの発言をしている。彼らは「日本人は、奴隷に最適な民族です」とも言い、日本書紀は偽造文書だとも主張するが、よく読めば反日的な説やデマを公開することを目的にしているのがわかる。
要するに彼やその仲間の佐治芳彦もだが、韓国や統一教会の仲間になるフリをして、その主張を日本に公表するスパイを演じていた。だから彼らの書籍を読むと、そんな事あるわけないだろうと思う記述が多いけれど、それは実は韓国や統一教会が流しているデマだったりする。

そういう内容で覚えているのを書くと、例えば「平将門はもともと『ショウモン』と呼ばれ、出自のよくわからない人物である」とあった。これは民衆の側に立って戦った平氏の平将門を貶めるためのデマである。
また「日本の天皇家が百済の王族の子孫だというのは、韓国では国民的常識です」ともあった。これも実際には現在の天皇家は桓武天皇の流れなのに、百済つまり清和天皇の流れだというデマ。

それに「源氏は朝鮮半島からの亡命者である」とか「源氏のルーツは朝鮮の『花郎(ファラン)』で、これを源花ともいうのに由来し、ホモの集団だった」とも書かれていた。また「八幡太郎義家の弟が新羅三郎義光というので、源氏は新羅人だ」とあり、また「摂津源氏のルーツは摂津渡辺村だ」ともあった。
Wikipediaには「近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した」とあり、摂津渡辺村は現在のあいりん地区だが、源氏が実際は虐げられていたのを考えると真偽は不明だが、ただいわゆる穢多身分とは平氏であり全く異なるので、字面通りには受け取れない。ただ源氏というのは「一族郎党」を名乗ったわけで、その中にはいろんな系統の人々を含んだはずである。
また各地に白幡神社・白旗神社というのがあり、源氏の白旗に由来するそうだが、なぜか千葉市の白旗神社の近くに韓国系施設が建っていたり、蘇我地区には白旗神社や白幡大明神という社もある。
要するに韓国や統一教会は「新羅はシラだから源氏の白旗と関係がある」という嘘を流布して、源氏は新羅つまり朝鮮由来なのだというデマを流している。「敵の土地に拠点をおいたり敵側の信仰をするフリをして正体を欺く」のは彼らの基本。

鹿島昇は新國民社から「桓檀古記」を出版したが、桓武の「桓」と檀君の「檀」なので、桓武天皇が檀君朝鮮の流れだと公表するため。彼は「桓という字は韓の古字だ」と書いていた。他にも彼らの書籍は注意深く読むといろいろ示唆に富む。

宇宙は99%

神を信じるというのは、神のいうことを何でも聞くということではない。迷った時に「神様っているのかなあ、いないのかなあ、いるはずだよなあ、よし神様がいると信じよう」と、神の存在を「信じる」ことである。それは、神の存在に疑いを抱かないことではない。疑いながらも、とりあえずいると信じる、それが神を信じること、だ。
俺は、神というのはこの世そのものだと思っている。この世というのは、要するに全宇宙だ。この地球も、月も、太陽も、宇宙の一部である。つまりこの全宇宙そのものが、神と等しいと思う。
宇宙は絶えず膨張していて、それは終わることがない。遙か太古のビッグバンの時から宇宙は膨張を続けていて、それは永遠に続く(だろう)。もし宇宙が終わる時は、熱的死を迎える時だとか、科学的な理論があったような気がするが忘れた。
とにかく宇宙は無限に果てしなく、終わりがなくて、ということはつまり果てがないのだから、どこまで行ってもそれは99%だということだ。有限であればどこかで100%に達するはずだが、果てがないのだから終わりまで到達してもそこは99%のはずである。
そう、この世は、常に99%の状態を保っている。故に完全なものなどどこにもない。
そして人類最大の命題である「神は実在するか?」という問い、これに対する答えも簡単に導き出すことが出来る。それは「絶対にわからない」だ。何故なら、この世つまり全宇宙が99%である以上、それに重なり合う神という存在も、99%でしかありえないからだ。99%までしか存在し得ないこの世に100%重なり合う神、その存在をどれだけ探求しようとも、その答えは99%までしか導けない。99%の100%は99%である。
よって神が実在するかどうかという問いの答えには、どんなに頑張っても99%までしか辿り着けない。だから絶対にわからない、のだ。それが神という存在の本質である。そしておそらく、その残りの1%に悪魔が入り込んでいるのだろう。
故に我々は、神を信じるしかない。いるかいないかわからないが、いることを信じるしかない。それが「神を信じること」である。それは確かに苦しい。確証のないものを信じることほど苦しいことはない。けれどおそらく、皆感じているはずだ。身の回りの自然現象、それは風のせせらぎだったり、大気のうねりだったり、葉の擦れる音や、鳥の囀りや雷鳴の轟きだったりするかもしれないが、そういった有象無象の現象の中に、神の存在を確かに感じることがあるということを。そう、神はこの世つまり宇宙そのものである。だからそこにいるのだ。
もちろんそれに関しても確証はない。何故ならどれだけ突き詰めようとも、答えは99%だからだ。この世の究極の問いの答えが99%なんだから、我々が迷える存在なのは当然だ。だから「神様っているのかなあ、いるはずだよなあ、信じるしかないよなあ」と神様を信じて生きるのだ :-p

[Thu, 31 Oct 2019]

狐の嫁入りについて想像

「狐の嫁入り」について個人的想像。

狐が何を意味するかだが、狼と犬と狐は同じフォルムなので、同じトーテムを意味するはず。狼はオオカミという発音から、大神神社つまり大三輪神社への信仰を持ち、国津神を奉じる人たちだった。狼はベニヤミン族のシンボル。そのためか世界中で狼という動物は悪者にされ、日本では絶滅させられてしまった。
狐は「女狐」といい英語ならFoxyとかVixenというが、つまりこの人々の女性を意味する。その嫁入りが狐の嫁入りだが、狐というのは稲荷神社の眷獣である。稲荷は「稲の荷」と書くから米俵のことで、食べ物のいなり寿司はこれと同様に米を包んだ食べ物。だから稲荷神社は稲作と関連するはずだが、稲荷神社では狐にお稲荷さん(油揚げ)を捧げる。
そして稲荷神社の特徴は、鳥居が何重にも連なっていること。鳥居というのは神社を参拝する際に人が頭を下げる、神が見下ろしている場所で、これが連続するのは「頭をペコペコ下げ続けろ」ということのはず。
慣用表現に「鳶に油揚げをさらわれる」というのがあるが、狐の好物の油揚げを、鳶が空から奪おうとする。では鳶とは何かというと、広島市内に行くとわかるが、街の低い上空を鳶がたくさん飛んでいる。平和公園などは何羽もの鳶がすぐ上空をクルクル廻っているのが見える。もし広島地方で鳶がトーテム動物なら、それが狐から油揚げを奪おうとする。

つまり国津神を奉じる古層の人々が米を献上したり女性を貢いだりする際に、頭をペコペコ下げねばならず、それは鳶に象徴される人々の好物なのだ、という寓意だと思う。嫁入りというのも結局、古層の人々の女性が好きでもない男のもとに嫌々嫁がねばならない風習があり、それを村の人々が見送る風習だったのでは。
稲荷神社で狐が眷獣なのは、そういう嫌々嫁がされた村の女が狐の姿で祀られているのであり、油揚げを捧げるのは彼女たちへの供養だろう。